OVA「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」('00/全4話 監督:川越 淳)

タイトルで味方のロボット同士がガッツリ戦闘しあうストーリーを連想するが、組み合いません。というか二体並んで立ってるシーンすらありません(OP除く)。かつて昭和年代に子どもたちを映画館へ吸い寄せていた「東映まんがまつり」へのオマージュをストーリー構成とタイトルとで形式としているわけです。いきなりネタバレすると、比較的運用が安定しているネオゲッターロボがストーリー後半に動かせなくなることにより、危険度が高くて封印されていた真ゲッターロボに主人公たちが乗り換える形となる。そこからさらに"神ゲッターロボ"へと進化します。

さて、実質一時間半というまさにプログラムピクチャーに最適な尺で製作されている通称『ネオゲ』です。ちなみにゲッターOVA三作では個人的にイチオシ。まず何が佳いかというと、全4話という短期決戦型コンテンツゆえにおそらくは第一線級アニメーターを揃えることが可能だったために動画のみならず画面の据わりを決定するレイアウトからキメッキメな点。もうこれは修辞抜きで全カットいい。全カット画角が快感。さらに地味なところでは、背景美術が筆痕が残ったような昭和の東映アニメっぽさを意識していると思われる凝りよう。メカに生物めいた弾力性を持たせてあるかのようなアニメートとともにパッと見で気付かないレベルでもまんがまつりオマージュは通されているわけです。

そしてロボットアニメとしての見せ場と見せ場をほとんど強引で出たとこまかせにすら見える手腕で繋いでいる構成。これはまた、本作の下敷きの一つとなっている"ゲッターロボサーガ"の特長を巧みにとらえている点であり、なおかつ昭和のロボットアニメ一般のパスティーシュにもなっている。明朗快活な基調で演出されながらも、アメリカとの屈託をにじませる共闘展開、人種間闘争による領土侵攻を想起しなくもない恐竜帝国とのふたたびの攻防など、昭和の戦後ドラマツルギーがほのかにまぶされているあたりも単なる外連味以上のスパイスになっているといえるかもしれない。さらにいえば、天涯孤独の未成年である號が富裕層のための闇プロレスで賞金稼ぎとなっている設定のほの暗さ、テストパイロットを使い捨てにして表情を変えない司令となった隼人、戦死する際にかならず皇帝の名を叫ぶムーブで洗脳に近いものを匂わせるハチュウ人類などダークさでいえば他のOVA二作にけっして引けを取ってはいない。

ただし、あくまでメインコンセプトは「東映まんがまつり」なので、その分は他のキャラクターをコミカル成分たかめにすることで全体の雰囲気のバランスを取っている。具体的にいえば、東映旧作のメインパイロットであった竜馬が武蔵殉職の傷心から世捨て人になっていて肉弾戦サポート役として山猿のように跳ねまわったり、敷島博士が味方をも研究材料にしかねないマッドサイエンティ…ストなのはいつも通りだった。(そういえば早乙女博士が正気の人だったのはどう解釈すればいいのかな。あのキャラは常に最初から狂っていないとゲッター線の得体の知れなさが引き立たないんだけど、彼が人類防衛の目的と手段を転倒させてないって描写そのものが本作のゲッター線の希望的解釈と捉えるべきか。)

ゲッターロボの作品世界に慣れていない場合、突然に展開されるストーリー、描写が極端なまま変化していく戦況や局面、SF考証やる気あります?という大道具使い(テキサスマックの乗馬だけは自分は今も納得してない)にどうしても戸惑ってしまうと思う。自分もそうでした。しかし何周か視聴を重ねていると、テラフォーミングと攻撃を同時に行う巨大円盤や、その機能によって自ら巨大ロボット化するハチュウ人類の帝王ゴール、人類にとって福音なのか破滅の前兆なのかやっぱり分からないゲッター線の謎エネルギー放射など、イメージパンチ優先のつるべ落としこそが他にない魅力として受け入れられてくる。そして最大最後の番狂わせが、ほのぼのとした気楽な雰囲気で終幕する点である。…まあそれが番外編としてつくられた「東映まんがまつり」オマージュの規定ラインなのだが、他シリーズでパイロットたちが辿る運命と比べる時なんともいえない余韻が味わえるのよ…

ともあれ、戦勝国アメリカとの対等な共闘!いまだ残る大戦の記憶の克服!不安もあるけど科学進歩への希望! という昭和子ども番組三大テーマをさりげなく盛り込んで、平成の世にプログラムピクチャーの王道を蘇らせた本作、アニメーションの傑作としてもっと広く評価されても良いのではと思う次第です。

~すべてが3Dプリンタ女体・中二病突破主義・メスゴリラナイーヴ宣言になる。~「攻殻機動隊SAC_2045」

攻殻機動隊SAC_2045」全24話 (監督:神山健治×荒牧伸志) を視終えた。やりたい放題度では攻殻史上「イノセンス」と並ぶのではないだろうか。前半ではエピソード同士の繋がりの見えなさが散漫に思えたりもしたものの、振り返ってみるといつも通りに作家性が高いシリーズになっていた。

サスティナブル・ウォー、すなわち『持続可能戦争』という架空の概念(オーウェル1984」からの借用)が本作の背骨となっている。それは米帝がAIを用いて世界の論調を操作して生み出した新たなる戦争の形(なお、具体的な描写が乏しかったために私はその全体図を結局最後までつかむことができなかった)。いうなれば、"終わりのない日常"と表裏一体の"終わりのない紛争"、小競り合いを永遠に繰り返すことを必要悪として認める世界観がそのタームには籠められている。産業的に持続可能な戦争を恒久的に果たすためのツールとして米帝が管理下に置くAI。その人工知能は自らをウイルス化して人間の電脳に感染させるという暴走をやがて行うことになり、そうして生みだされたのが今回の敵である『ポスト・ヒューマン』だ。彼らは人間ではあり得ない動きをやってのけ、高い殺傷能力と冷徹な判断力を持ち、持続可能戦争を果たす目的に邁進するために本来の人格を上書きされてしまう。しかし草薙少佐率いる9課は例外的なポスト・ヒューマンをやがて捜査線上で見出すことになる。ありふれた男子中学生のシマムラタカシだ。

さてシマムラタカシの登場により、物語のレイヤーは不透明度が増すことになる。一言でいえば、現実と妄想の境界線がはなはだ不明確になるのだ。タカシがかつて幼い従妹を失った過去の出来事(80年代の邦画「野生の証明」を少し思い出したりもする)、元空挺団の中年男、眼鏡をかけた生真面目な美少女委員長。すべてが嘘くさいというか、昭和年代のジュブナイルのシーンを繋いだように薄っぺらいのだ。しかし更なる混乱に視聴者を陥れるのは、シマムラタカシのノスタルジックな内的世界に、9課の一員であるトグサが巻き込まれてしまうことだ。彼は元空挺団のおじさんが駆るトラックに同乗して仲間たちの前から立ち去る。ト、トグサくん!とっくに新人ポジから抜け出したと思ってたんだけど。

これ以後、もう何が基底現実で何処からがポスト・ヒューマンの頂点であるシマムラタカシが他者の電脳をハックして見せているフェイクなのかが判別不能となる。トグサが過去に潜入捜査でしくじって遁走した雪原も、眼鏡委員長カナミの実在も、復興計画が絶賛遅延中の東京でタカシの賛同者たちが集う桜まつりの屋台も、すべてはノスタルジックな虚構なのか、男子中学生の空想フィルターがかかった現実なのか。フル3DCGという制作スタイルも相まって、リアリティラインはずっと宙づりのままストーリーは進行していく。

ただし、まさに中学二年生の男の子がノートに書き綴ったようなドンパチ展開は多彩に繰り広げられて、ミリタリーアクションとしては満足度は高くサクサクと飽くことはなく楽しめる。私のイチオシはルーフトップから上半身を出して重機関銃を連射するミズカネスズカの追撃。なお、ミズカネはタカシの側近であるタイトスカートの秘書のような眼鏡美女だが、二人のなれそめはまったく描かれないので一際リアリティの薄いキャラクターだ。なろう小説か?なろう小説なのかな?タカシはなろう作家だったりする?

やがてシマムラタカシとミズカネスズカは、米帝原子力潜水艦の食糧用3Dプリンタで義体を転送する奇策によって瞬時に艦内を制圧することで、米帝を相手に独立国宣言を行う。シマムラ率いる集団は自らを『N(エヌ)』と名乗るのだが、Nとは何を意味するのかは劇中では特定されない。ニュージェネレーションかもしれないし、ノスタルジー主義かもしれないし、NETFLIX愛好会かもしれないし、なろう小説宣言かもね?(自説への固執) 9課、N、米帝が送りこんできたNavy SEALs重機装部隊(デザインがとてもAPPLESEED色濃くてわくわくする)の三つ巴の激しい交戦のすえ、原潜から核ミサイルはとうとう発射されてしまう。そして世界は…  どうなったか分からない。なおシリーズ終幕でもはっきり明示はされません。基底現実はここで一旦壊れてしまったとしか自分は解釈できなかった。たとえてみればジョジョ第六部みたいな感じ。

さて、考えこんでもしょうがないストーリーの解釈については観た各々がやればいいってことで、ここは終盤でシマムラタカシと草薙少佐が一対一で会話するなかで、タカシが少佐を称した『まれなロマンチスト』という言葉に焦点を当てたい。自分はこういう(ああ、これを音声として上げたくて作品にしたのだな)というセリフに弱い方で、"ぐだぐだ言わずに黙るか偉くなるかしろバーカ!"みたいな意味で解釈されがちな、攻殻さいだい有名決め文句の、返句になっているように受け取った。少佐が戦うのはお金とスリルのためだけじゃない。彼女もまた、人類がもっと自然なプロセスを経て新たなステージに移行することを信じて行動している一人だったと劇中で明示された瞬間だった。だからこの数秒だけでもう断然好きですね、このA級ポリティクスミステリーをB級サイバーアクションでまぶした作品。…にぎやかしキュート新人として登場した江崎プリンが、ポスト・ヒューマンと人間とを橋渡しする存在として草薙少佐に背を押される希望の示し方もソフトな着陸点として成っていたし。

シマムラたちが目指したダブルシンク二重思考)の理想世界。現実と妄想とを等価に扱うのが人間の弱点でもあり強みでもある。ゆえにネットで不毛な炎上騒ぎもしょっちゅう起こるし、かと思えば理念を形として現実を刷新したりもする。ただ問題は、ポスト・トゥルースの時代においてダブルシンクの統制を独占的に行おうとする者が現れるシステム由来の脆弱性だ。そのアクチュアルな課題へと、ポエティックに過剰に寄らず、安易なイデオロギー揶揄にも堕さなかった手腕はさすがの矜持だと思う。

(追記:無人島のような旧首都で桜まつりを楽しんでいる『N』たちの姿は何かを思いだすと考えていたんだけど、「ニコニコ大会議」が盛り上がっていた時の印象だった。そしてそこで集う人々が名指しで異端者を狩り出す時に使う言葉『N(えぬ)ぽ』。こちらは匿名掲示板発祥の「ぬるぽ - Wikipedia」を思わせる。…トグサが迷い込んだイメージ継ぎ接ぎ世界は、当初はシマムラタカシ個人の過去心象とトグサ本人の記憶とがシームレスになった領域かと考えられたが、第12話『すべてがNになる。』以降、画面に映るのはNたち全員の"あったかもしれないが決してなかった/あってほしかったがないと認めざるを得ないゆえに切望する疑似ノスタルジー"の鏡像として意識して視るのがあるいは正解なのかもしれない。とはいえその手法が作品として十全に成功しているかといえば、保留の印が付く。)

 

2022年5月に読んだ本

東京ゴースト・シティ

人気のある都市というのは、大概が過去に生きた人々の痕跡がじんわりと肌で感じられる。知日家でもあるナンセンス小説の名手ユアグローが、出版社の招へいに応じて短期逗留した東京都内の各所をモデル(エピローグでは思わぬ場所に意外な人選とともに跳ぶが、エトランゼとしての自意識が為せる業かもしれない)に、過去と現在とひと昔とちょっと先の未来とがマーブル模様に交じりあうTOKIOの喧騒を幻視しつつ居酒屋巡りで喰いだおれる。もっと遠慮のない観察眼がそのまんま出ていても良かった気がするけど、友人の多い国への半ばエールもこもった創作エッセイとしては十分楽しい。

 

ヌマヌマ

ロシア文学の翻訳者であり、第一線の愛好者でもある沼野夫妻による、現代の精鋭たちの短編アンソロジーサイバーパンクあり、詩情実存あり、リアリズムあり、越境者文学あり、サイコホラーありで、その幅広さ自体に今まさに隣人としてあるロシアの等身大の姿がこれまでにない鮮明さでイメージされてくる。夏に過ごす畑付きの質素な別荘、当然の帰結としてほぼ汚いものだけで構成される学生寮という名目の貧民アパート、相互監視のうっすらとした緊張感の漂う都市のルーティーン。これまでとは違う解像度で紹介される近くて遠い大国の姿に、そこで綴られてきた儚さと強靭さとを併せ持つ文学の営みに、あらためて魅了された。特に、時空をシームレスに行き来する超絶技巧を難なく駆使する『バックベルトの付いたコート』(ミハイル・シーシキン)はオールタイム・ベストもの。ほか、語りの騙りを用いた『空のかなたの坊や』(ニーナ・サドゥール)も人物像への適度な距離感がユーモアと哀切を生んでとても佳い。

OVA「新ゲッターロボ」(’04/全13話 監督:川越 淳)

 昨年にTV放送されたゲッターロボシリーズの最新作「ゲッターロボアーク」でなぜか急にゲッター線に目覚めてしまった(伏線としては幼少期に読んだ石川版ゲッターロボがある)余波として、同シリーズの平成OVA三作の掉尾を飾る「新ゲッターロボ」をはじめて最終話まで視通すことができた。なぜ"はじめて"かというと、これまではバイオレンスドラマとロボットアクションを繋げる企画の意図が掴めなかったのである。さらに言うと、それをロボットアニメ名作のリメイク(なお厳密にはこの定義はあたらない)でやる意味が分からなかった。

 「新ゲッターロボ」は石川賢が存命中に制作された最後のアニメ作品である。それにふさわしく、石川が構築した"ゲッターロボサーガ"のエッセンスをよく掬い取って嚙み砕いたのちに構築し直された内容となっている。東映TVシリーズとも先行のOVAシリーズ2作とも大きく異なるキャラクター設計(もっともゲッターロボはどのシリーズにおいてもキャラクターやストーリーのアプローチと解釈がバラバラなのだが)は、石ノ森章太郎の昭和SF漫画をアニメ化する際に数多くメインライターを担ってきた大西信介の持ち味がかなり強く出ていると私見した。それは一言でいえば"無頼"。たとえれば昭和の脚本の自由度の高かった時代劇や、平成に多く流通していたレンタルビデオ向けのヤクザものに似た雰囲気が本作にはある。根なし草の野良犬たちが吠えまくり暴れまくり、やがてはどこかへ去ることで世間から消えていく。その哀愁をロマン仕立てにした趣向に近いものが、この「新ゲッターロボ」では料理の"つなぎ"の役目を果たしている。いわばこのアニメのジャンルはピカレスクであり、ノワールと定義してもそう外れてはいない。そこに本作の最大の特長がある。ちなみに主人公パイロットたち三人それぞれの属性は、外道とされた格闘家、殺人を辞さないテロリスト、時代遅れなまでの破戒僧…である。なお、他のゲッターロボ作品と比べて本作の白兵戦の割合とその血生臭さは抜きんでていることも補足する。

 そうなると、何度視返しても(なぜ平安時代タイムスリップで4話も使う?)となってしまう「黒平安京」編がむしろアニメとしてのケレン味を強めるためのバランサーだったのではないかと仮説を立てたくなってくる。中途半端にキャラが立った(子安武人の悪役演技は例によってすばらしい)安倍晴明といい、なぜ女なのか脚本意図があやふやな(セクシー要員かといえば全然そんなことはない)源頼光といい、率直にいって舞台負けしがちなテーマ構成になっている「黒平安京」が、アニメとしての見応えを加えるために現実とは離れた空間に一旦は舞台を移す必要があったと理解できる気がしてくる。ただ、前半で"鬼"という存在でくりかえし示唆された、人類の種保存本能と表裏一体の攻撃性=暴力志向がテーマで十分に昇華されたかというと、結論をいえばかなり惜しいといわざるを得ないかもしれない。

 「黒平安京」編と終盤の四天王神の来襲とを繋ぐブリッジにあたるのが第9話の『地獄変』だが、そこで主人公のひとり流 竜馬は未来の東京が異形の人類だけが生き残る荒れ果てた場所になっているのを幻視すると同時に、その荒廃が自分自身の内面が反映された帰結だと直観する。ここで竜馬の比類ない無頼性がテーマの軸としてクローズアップされていくのだが、それを補強するイメージとしての画面描写は的を射ているものの、周囲のキャラクターから見た竜馬のスペシャリティへの批評や説明が少々不足しているゆえに視ていて理解が追い付いていかない感触がある。独自の意思すら持つと観測されている、宇宙からの未知のエネルギー体である"ゲッター線"。その意思に選ばれた存在である竜馬の特異性は、最終決戦に向けてもっと印象付けられていた余地があると考えるのが、自分が本作に抱いた惜しさの理由だ。竜馬というキャラクターの異物感と、そこを突破してのピカレスクロマンの本懐。さらに脚本と演出とでテーマが練磨されていればと対四天王戦を視ながら考えてしまっている自分がいた。そもそも"神"を自称するには四天王たちはスケールが小さく感じられ、ゲッターロボサーガの特徴である"人類がやがて対峙する脅威"の得体の知れなさと比べると、わかりやすい解釈とのバーターに思えるのが難だ。それとも、四天王たちの眷属たちによる物量戦(チェンゲ序盤の有名なシーン!)があるなどの画面を盛る趣向があったらよかったのかもしれない。

 とはいえゲッターファンの端くれである自分が本作を評価しないかといえば、全くそうではない。消えゆくVシネ文化の徒花のような暴力でなにもかも昇華する粗さと、やりきれない言葉未然の感情をときおり拾うこまやかさという日本アニメの得意とするところ(意外とキャラが黙考するカットは多い)が自然に融合した演出の安定度、市街戦、攻城戦、研究所の格納庫、ダム湖などを舞台設定としたロボットアクションの豊富なバリエーション、そしてここぞという回では爆発的にエッジな動きをみせるアニメート、何より捉えどころがなく、古いファンほど「何度読んでも分からん」といわしめる石川賢が織りなす"ゲッターロボサーガ"を大胆に改変して自家薬籠中としつつも、いくつかのシチュエーションなどで石川版を踏襲してパラレルワールドの醍醐味をも醸成していることなど、何度も観返す価値は十二分にある。おそらくゲッターOVA三作のなかでも全体的な評価はもっとも高いのではないかと思われるので、興味のある方には一見だけでもおススメしたい。ところで個人的には、マッドサイエンティストの早乙女博士の令嬢であるミチルの現代を先取りしたかのような自立した女性キャラぶりに注目してほしく思う。それでいて、他シリーズの彼女ともそこはかとない繋がりは切れていないのだ。(余談ながら。暴力描写はやや過剰気味なのだが、女性をいたずらに客体化する面はあまりない気がするのよ、ゲッターロボ全般。)

2022年4月に観た映画

ナイトメア・アリー ('21 アメリカ/監督:ギレルモ・デル・トロ)

どの街にもある『悪夢小路(ナイトメア・アリー)』。そこでは人生という迷路で袋小路に詰まった者たちが行き倒れている。悪意、失望、孤独、格差、搾取。あらゆる悲惨がカードのように目の前で展開される。さあ、どれを引く?  しかし他人を陥れる狡さと悪意の深さで社会階層を上がれるのなら、人生は表面的な美醜とは無関係に等しく汚泥で舗装されていることになる。その生の真実が“物語”というロジックの枠にきっちり嵌った瞬間、一滴のカタルシスを感じるのも救いといえるのかもしれない。ブラッドリー・クーパー演じる主人公の最後の笑/泣顔が脳裏を去らない。

 

アネット ('21 フランス・ドイツ・ベルギー・日本・メキシコ/監督:レオス・カラックス)

恋のたかまりを表現した美しいポスターに騙されるが、これは愛の物語ではない。さらにいうと、そのシーンはドメスティック・バイオレンスの現場なのだ。なんという悪童精神。カラックスここに在り。SNS時代の寵児となる赤ん坊の(劣等感から妻を虐待した夫の娘)アネットはなんとマリオネットとしてほぼ全編に演出される。かえって手間かかるだろ!それもしかしてコンプラ全盛時代へのアイロニーか?でも面白い。すべてのカットが腰すわって視点が定まった構図。アネットの歌が世界を席巻する描写の、偶像が夜空をきらきらと回転するイメージのバカらしさと愛らしさの両立。『ホーリー・モータース』よりさらに進んだ自作客体化を見せてもらって、あちらは不満気味だった自分は本作はかなり好き。親子関係という今もっともセンシティブな対象への着地点も納得がいくものだった。そしてどの街も夜が美しかった(でも東京の高層ホテルからの夜景、あれ実際の撮影はマカオとか香港じゃない?)。

 

MEMORIA ('21 コロンビア・タイ・イギリス・メキシコ・フランス・ドイツ・カタール/監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン)

ポスターの良さに惹かれて観に行ったので、環境ビデオとしては満足。ただ、このカットさすがに長すぎでしょ?ということが一度ならずあったので、自分はあんまりこの監督の良さは分からないかもしれない。講義室に満ちるセッションの演奏音、ジャングルに降りしきる雨の落下音を経ての、絶対的な無音/爆音へと至るイメージの旅としてはそれなりに浸ることができた鑑賞体験だった。

2022年3月に観た映画

ライダーズ・オブ・ジャスティス ('20 スウェーデンデンマークフィンランド/監督:アナス・トマス・イェンセン)

テック陰謀論、家族間虐待、社会的弱者、有害な男性性、ネオリベ接近ギャング。様々な現代の問題を詰め込んで、よくこの着陸点に辿り着いたなと思った。それで済むのかしらというアラはあるものの、まあクリスマスだしな!とムードで流せるいい加減さもこの映画のチャーミングなところ。銃撃戦でのもうさすがにダメ、終わった…からの展開は久しぶりに映画で胸がスッとした。印象的なキャラクターのバリエーションでは今年の指折り。特にカウンセリングを受けすぎてカウンセラーの真似事が出来てしまう内向的なおじさんが現実感あって良かった(もうしませんごめんなさいってシーンがほんとに沁みた)。心が深く傷ついた人たちのサークル物語であり、あるいは新たなるランボー型破天荒アクションでもあり。

 

THE BATMAN ('22 アメリカ/監督:マット・リーヴス)

暗くリアルな荒んだ街から始まり、自分の殻に閉じこもった青年主人公がときに自らの中の破壊衝動をコントロールできずに、それでも悪と戦う自警活動をやめられない。正直いってそのまま、精神面で成長せずにラストまで持っていってほしいという衝動を観ている最中に感じたが、中盤のキスシーンで物語はなだらかに変調する。クライマックスの、ドラクロワレンブラントの名画を思わせる重厚な光線設計の救助誘導の場面へと導きだされたメッセージ性もまた、悪くないと今は思ってる。暗い通路で明滅する戦闘シーンのスタイリッシュさ、歯止めの効かない行動原理を象徴したカーチェイスなど、アクションもそれぞれちがう趣向が凝らされていて見ごたえがあった。

 

パワー・オブ・ザ・ドッグ ('21 イギリス、オーストラリア、アメリカ、カナダ、ニュージーランド/監督:ジェーン・カンピオン)

室内を撮る空気感、日常に潜む緊張がこれでもかと演出されているのが印象に残った。同じく人間関係でのやり場のない居心地の悪さも。聖書で説かれるところの“犬の力”への対処は人それぞれだが、完全に逃れることができないからこそなるべく自らを遠ざけろという事なんだと思う。同性愛者である事を自分自身で認めることができずに生きる西部のカウボーイを演じたカンバーバッチの、表情のみならず仕草や姿勢でまで表現した様子が忘れがたい。ただ、他者への攻撃性という現罪に対してのアプローチは、ふんわりとしたままで終わっているような感じもする。

 

バトル・オブ・ザ・セクシーズ ('17 アメリカ、イギリス/監督:ジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリス

プロテニスの賞金の明確すぎる男女差に対して異議を申し立てた女子選手が、旬を過ぎた50代の男子選手のおちょくりめいた挑戦を受けて立ったという70年代アメリカの実話がベース。女性蔑視という根を持つ性差別が今よりさらに当たり前だった時代の空気の再現がこれみよがしさの無い自然さで、そうだ、悪意以前の態度の噴出だからこそ問題は深いのだと改めて気付かされる演出になっている。主人公のレズビアンの女子選手、人格的にも経済的にも頭の上がらない妻を持つ男子選手、双方を囲む登場人物たちすべてにこまやかに陰影が付けられており、脚本が非常に練られているために試合の行方が単なる勝敗のカタルシスを超えた、将来というそこにはない次元への希望が感じられた。特に性格描写が巧いと思ったのはそれぞれの配偶者たちで、結婚という引いて考えれば相当に不思議なシステムについてのパースペクティブにもなっていると思う。

 

2022年4月に読んだ本

フロイト、夢について語る

フロイトは名著『夢判断』のあとにもちょこちょこと夢と無意識とにまつわる論文を書いていたそうで、それらを集めた内容だけに(ん、先生その話まえにもしてなかった?)と読んでいて思わなくもなかった。それだけにフロイトの著作の良さが再確認しやすくもあって、まず先生は、自分自身の夢に対してもなかなか容赦なく無意識の現われを腑分けしている事。極めて率直な姿勢であると思う。(もっとも性にまつわる診断は入ってなかったけど)それから、フロイトの書く文章は医学論文にしてはかなり創造性が高いのではということ。要するに読み物として耐えうる、書き手の意思表明に満ちている。…それが発表時から後年にいたるまでの絶えざる粗さや強引さの指摘のもとになっているきらいはあるものの、やっぱり自分はフロイトが見出した無意識という領域の意義は大きいなと思う。