第65回2022夏調査

アニメ調査室(仮)さんにて開催中。以下、回答記事です。

 

2022夏調査(2022/4-6月期、終了アニメ、50+1作品) 第65回

 

01,CUE!,x

02,であいもん,x

03,パリピ孔明,x

04,SPY×FAMILY,x

05,トモダチゲーム,x

 

06,ヒーラー・ガール,x

07,じゃんたま PONG☆,x

08,かぎなど シーズン2,x

09,デート・ア・ライブIV,x

10,まちカドまぞく 2丁目,x

 

 

11,群青のファンファーレ,x

12,サスとテナ シーズン2,x

13,くノ一ツバキの胸の内,x

14,このヒーラー、めんどくさい,x

15,ダンス・ダンス・ダンスール,x

 

16,おしりたんてい 第6シリーズ,x

17,BIRDIE WING Golf Girls' Story,x

18,エスタブライフ グレイトエスケープ,x

19,八十亀ちゃんかんさつにっき 4さつめ,x

20,乙女ゲー世界はモブに厳しい世界です,x

 

 

21,骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中,x

22,かぐや様は告らせたい ウルトラロマンティック,x

23,邪神ちゃんドロップキック まめアニメ (北海道編),x

24,ヒロインたるもの! 嫌われヒロインと内緒のお仕事,x

25,本好きの下剋上 司書になるためには手段を選んでいられません 第3部,x

 

26,理系が恋に落ちたので証明してみた。 r=1-sinθ (ハート),x

27,ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期,x

28,ビルディバイド #FFFFFF (コードホワイト 2期),x

29,ブラック★★ロックシューター DAWN FALL,x

30,史上最強の大魔王、村人Aに転生する,x

 

 

31,社畜さんは幼女幽霊に癒されたい。,x

32,盾の勇者の成り上がり Season2,x

33,可愛いだけじゃない式守さん,x

34,古見さんは、コミュ症です。,x

35,舞妓さんちのまかないさん,F

 

36,阿波連さんははかれない,x

37,恋は世界征服のあとで,x

38,処刑少女の生きる道,x

39,境界戦機 第二部,x

40,魔法使い黎明期,x

 

 

41,勇者、辞めます,x 

42,薔薇王の葬列,F

43,RPG不動産,x

44,パウ・パトロール シーズン4,x

45,(4月終了) リーマンズクラブ,x

 

46,(4月終了) SHAMAN KING (シャーマンキング),F

47,(全8話) 3秒後、野獣。 合コンで隅にいた彼は肉食でした,x

48,(ネット配信) みにヴぁん ら~じ,x

49,ファンタスティック・プリズン,x

50,(特番) Dr.STONE 龍水,x

 

 

51,おにぱん!,x

 

<総評>

今期は…「ちいかわ」しか視てませんでした!こんなシーズンは初めて。

 

<追加評価>

64-51,時光代理人 LINK CLICK,B

(寸評:中国の現在を切り取った情景やテーマが新鮮(特に戸を大きく開け放して夕食を食べる農村風景が佳かった)、スポーツ作画も目を引く箇所が見られ、そして肩の凝らないサスペンスものとして娯楽性が高かった)

 

 

2022年6月に観た映画

オフィサー・アンド・スパイ ('19 フランス/監督:ロマン・ポランスキー)

全編に渡って演出と撮影に抑制が効いており没入感がすごい。歴史に名高い「ドレフュス事件」の内容についてはほとんど知識がなかったが、最低限の説明で理解ができるように作られていて、その中で清いわけでも腐りすぎているわけでもないパーソナリティを持つピカール陸軍情報部長が主役として置かれる。正義感からというより、なんとはなしの職業的な違和感を起点に冤罪の解明に挑むというサスペンスにゆるやかに入っていく。19世紀末のフランスの場面によっては半ば公然とユダヤ人差別の言辞がとびかう危うさは、ヘイトスピーチが日常に浸食してきている現代の空気と重ねられる。ピカールは、ユダヤ人ながら優秀な成績を修めて幹部候補となったドレフュスの学生時代の担当教官でもあったという縁の導き、また彼個人のギリギリの民主主義への矜持でもって結果的に正義の一線は劇中において(また、その下敷きとなった史実においても)引かれることとなる。それがどんなに稀有で危ういことかは、ピカールの数々の苦難の展開で派手な演出や明快なセリフがなくとも観る側に沁みてくる。沈んだ色彩と均一な光線で淡々と描かれる英雄映画。ラストシーンの愛人(彼女との直接的な濡れ場がなかったのも好みだ。別に必要ない描写だし)との会話であえて定石を外すような趣向ともども、堪能いたしました。ポランスキー、いろいろモヤモヤするクリエイターになってしまったけど本作は問答抜きで傑作。ところでピカールとかつての副官が決闘するシーン、これまで見てきたレイピアの殺陣でいちばんリアルに感じられた。あんなん刺さったら痛くて動けなくなっちゃうよー …しかしこの決闘シーン、テーマ上ではクライマックスだったかもしらん。副官はまだ人間として腐り切っちゃいない部分があったからこそ、最終的には理解しあえる可能性が出てきた。だから屋内馬場でのシーンは美しい。ひるがえって街角でつかみかかってくる売国奴の方は掬いようもないってことやね。後者はともかく、前者をいかに民主主義の原則へ引き寄せるか。これは現実社会での大きなヒントでもあると思う。

OVA「真(チェンジ!!)ゲッターロボ 世界最後の日」('98/全13話 監督:川越 淳)

ついにゲッターロボOVA三作の起点たるチェンゲまでさかのぼってきた。たしかBS放送で視た時は第1話で挫折し、それからも配信で3、4回は試みが途絶した自分にとってはまあまあの曰くつき作品である。なにしろ画面の中でキャラクターが何をやっているか、敵対関係の構図、物語展開の把握、すべてに着いていけなかった。かてて加えて、EMOTIONレーベル15周年記念作品という鳴り物入りとして当時から注目された分、さまざまな毀誉褒貶や噂話がインターネットの匿名掲示板や同好グループの知人などから流れてきており、なんとなくの先入観も多少あった。それらを真に受けているということはさすがに無いが、実際に本編を鑑賞していて制作現場の混乱を感じざるを得ない瞬間が多々あったのも事実。…やはり情報量がいろいろと多すぎる作品である。

さて本編プロローグにあたる第1話~3話だが、いたずらに時間軸を行きつ戻りつする出来事描写の分かりづらさ、同じようなことを何度も思わせぶりに語る早乙女博士が画面に映るたびに戸惑うなど、とにかく視聴が滑らかに行かない。だが、シリーズの見通しが完了した今はあのプロローグ部分は、この作品のみならず他ゲッター作品に対しても多大な影響を与えていたのではないかと見えてきた。先に結論を述べておくと、OVA展開にあたって真っ先に目論まれたのはそれまでに様々な媒体で発表されてきた「ゲッターロボ」を壮大なサーガ、つまり叙事詩として編み直すことによる魅力の核心の炙りだしであったということだ。物量作戦として乱舞する量産されたゲッタードラゴンたち、その中心部の高いところから年若い者たちを睥睨し、託宣めいた言葉を吐く仁王立ちの早乙女博士 --彼はゲッターロボサーガにおける科学面の司令塔であり、ゲッター線というオカルトの大祭司である--。はっきりいって何を言ってるのか、やりたいのかさっぱり分からない。(おそらく再度観直しても同じ感想を抱くと思う)ここにシナリオの構築不足をみてとることに私は躊躇はないが、だが映像インパクトとしてはおそらく成功している。正気を失ったとしか思えない早乙女博士(そもそも当初は死亡扱い)、どういう因果で対立したのかまるで筋が通ってないままキメ顔で銃を突きつけあう竜馬と隼人、あれよあれよという間に戦闘の余波で死亡する武蔵。ぜんぜん話の筋がつかめないが、不思議と石川賢が描いてきた漫画版の印象は踏襲されている。そしてなんとなく雰囲気が壮大だ(音楽もオーケストラ曲を多用)。…このオペラステージを見ているような或いは宗教画の異時同図法をほうふつさせるような、イメージだけを奔流させた導入部。どこまで企図された趣向かははかりかねるが、リリースから20年経った今でも語られることの多い作品となった十分な理由に値すると思う。印象を残すための映像としてかっこよければそれでいい。実際それで「ゲッターロボサーガ」が後年まで長く語られることへのレールは十分敷かれたのだ。

さて第4話以後の内容については、印象でいうとプロローグ部よりも薄いと言い切ってもいいかもしれない。脅威であるインベーダーの執拗な襲来を振り切りながら、ロードムービー的に移動しつつ早乙女博士の乱心の謎とインベーダー襲撃の目的とを解いていく。ストーリー面の評価としては、筋の綾目が掛け違っているように感じられたり(前述通り、早乙女博士の殺害にまつわる機序が明確に説明されない上にエピソードとしての必要性があやしい)、設定の必然性に首を傾げたり(クローン体である號のオリジナルがミチルであるのはまあ良いとして、なんでそこに父親である自分の細胞情報を混ぜ込むの?)、アポカリプス世界での組織系統の描写が省かれているためにメインキャラたちの行動原理が掴みにくかったりと、話数どおりに順番に視ていてもあまりスッキリとこない(またはこれはOVA全盛期に散見された"船頭多くして船山に上る"状態が製作が進む中で起こったのかもしれない。所詮は推測に過ぎないが)。それぞれのエピソードとしてもどこかで見たような筋のものが多く、特に出色といえるものはない。だがアニメとしての見どころがないわけでは決してない。3、4話に一度の割合で巡ってくる充実した作画回においてのロボットアクションは、他のゲッター作品と比べても特長がはっきりとある。オブジェクトとしての重量感のあるロボットが人物的に躍動するアニメート、建工重機のような操縦ギミックから漂ってくる独自の臨場味、かいつまんで評するとリアルな質感とガジェットの醍醐味とが絶妙に共存している。本作が海外のアニメファンに人気があるという秘訣もここにあるのではないかと想像される。また、どのシリーズでも子供を成した描写もない弁慶が、ヒロインである渓の育ての親として存在感を放っている大胆な脚色。90年代から00年代にかけてのエヴァンゲリオン・ブームにあやかって様々な作品で頻出した綾波レイマクガフィンとしての號と、因縁浅からぬ溪との陰陽図にも似た関係性の美しさ、損壊されても繰り返し襲ってくるインベーダーの生理的嫌悪感を誘う執拗なまでの不定形描写など。残念ながら不完全燃焼に終わったテーマ処理が多いながらも、作画・演出の独自性や強い印象を残したキャラクター描写は片手の指では足りないほど挙げられる。

そして終盤のクライマックス、舞台を宇宙空間に移してふたたび序盤に引けを取らないめくるめくロボットバトルがこれでもかとインパクトを叩き込んでくる。中盤の冴えなさもこれで完全に帳消しである(当時ディスクを一枚ずつ購入していた人にとってはそう単純ではないとは思う)。終わりよければ総てよし。本作のこの最終話の圧倒される充実ぶりは、ゲッターロボ作品では恐らくずば抜けているのではないだろうか。説明は足りてないままだし理屈はよく分からないけど、とにかく大団円! ロボットアニメはこういうのでいいんだよ。(あらゆる異論は認める)

とはいえ、せっかく批評するにあたっていまいちど概論はしておかなければいけないと思う。チェンゲとはゲッターロボ作品史において何だったのか。それはサーガ(神話)の開門部にして、見取り図だったのではないだろうか。第1話から第3話までと、最終話での激しい戦闘はそれぞれ新・旧のラグナロク北欧神話でいう神々の黄昏にあたる。竜馬たちオリジナルゲッターチームが果たせなかった"神殺し(≒父親超え)"を十数年後に號を筆頭とした新たなメンバーが達成するという筋をシリーズ構成の柱としてあててみると、それなりにコンセプトが理解できるのだ。なお、ここでいう「神/父親」とはすべてにおいて偉大な早乙女博士であり、スティンガー&コーエンに象徴される既存の価値基準(人類は生き残りのためにインベーダーと共生『せねばならない』という固定観念)が内容となる。偉大なる父を超え、過去の世界を刷新する神殺しを過去の恩讐を超えてメインキャラ全員で成し遂げて、かつてのゲッターチームたちは別の次元へと旅立っていく。號や渓に剴たちが切り拓いていく新時代のビジョンがまったく示されないまま閉幕したことも、かえって清々しさを覚えると肯定も可能なのである。そして当初(からあったと想像されるところ)のコンセプトを制作の混迷の末に完遂した本作はその歪な出来ゆえにかえって溢れ出るパワーを視る者に伝えてくる快作となった。この外側の状況もまた、成り立ちが神話的といえないだろうか。

 

追記ゲッターロボOVA三作の趣向をそれぞれ1フレーズで表すなら『ヒロイック』(チェンゲ)、『アミューズメント』(ネオゲ)、『ピカレスク』(新ゲ)。まったく異なるコンセプトで相互に際立たされている事がわかる。またこれらは"ゲッターロボサーガ"に見出される要素そのものであり、ごった煮されたカオスな様相そのものがエンタテインメントを成すゲッターロボの魅力が直観的に示された三位合体であると今は理解できた。)

(追記のさらに追記:なお、別の表現で分類するなら三作は『バロック』『ポップ』『ゴシック』)

補足:記事中で北欧神話がコンセプトに入っているのではないかと特にソースもなく推測したが、チェンゲにおける早乙女博士は片目が髪で隠れているデザインがデフォルトとなっており、これは隻眼のオーディン神をほうふつとさせる。興が乗ったので、そこから他のキャラを北欧神話の諸柱に充ててみた。ミチル→ヨルズ<オーディンの娘にして妻でありトールの母>、號→トール<北欧神話最強の戦神。雷をつかさどる>、渓→フレイヤ〈やはりヒロインたるもの、北欧神話でもっとも有名な女神を。戦の女神でもあるみたいだし。オーディン神の対概念であるという説も〉、竜馬→ロキ<チェンゲでの彼はトリックスターだと思う。従来のキャラとは役目が反転してる気もするけど。正体不明として(瞬間含む)登場する展開が複数あるのが変身を得意とするロキっぽい>、隼人→ヘイムダル<世界の見張り番である神。ラグナロクの訪れを告げる役目を持つ。ロキとは因縁がある>)

 

2022年5月に観た映画

犬王 ('21/監督:湯浅政明)

湯浅作品にありがちだった、ドラマの求心力の薄さが本作にはまったく無くてその時点でこれはただ事ではないのだと悟った。自分の運命の根本を探す主人公ふたりは、将来という名の行く先を求めようとしない。興奮の絶頂へ大衆に同行こそ求めるが理解も同情も求めない(だからこそ処刑現場での見物人たちはさして露悪的にも、その逆に感傷的にも描かれない)。怨霊も欲望もすべては昇華されると信じることが芸道だから、この映画ではそう描かれる。これはスクリーンで体験する精霊流しフェスティバル。惨い展開や生臭いまでの人体の質感が山のように入っていたのに、なぜこんなに観た後さわやかなんだろう。まるで本当に夏祭りに見る影絵劇に集ったかのようじゃないか。芸能のひとときだけ人間はお互いにこしらえた壁を融解することができる。それは形として残らないとしても、決してなかったことにはならないんだ。映画を観た。誰でも作れるわけではない純正体験としての映画を観た。(…ただ、『鯨』の演目をプロジェクションマッピングのようにみせるシークエンスはもっと時代考証に沿う工夫がほしかったところ。あまりにも現代の仕掛けと遜色のない描き方だったので、没入感がやや妨げられた。)

 

RE:cycle of the PENGUINDRUM 前編「君の列車は生存戦略」('22/監督:幾原邦彦)

テン年代アニメのアイコンといって過言ではないピンドラとは何だったのか?それを探るために不肖ロートルわたくしは単身近場の劇場へと向かった。エピソードの8割への印象をすでに亡失していた事には気付いたが、冒頭に挙げた疑問への答えは見つからなかった。しかし待てそして希望せよ。後編がまだあるのだ。…ひとつ、劇場版に編集し直された点への感想を述べれば、10年の歳月を経て再起動する企画が結実した今になって、作品に念入りにまとわせたポップさの膜を作り手自身が薄く剝ぐ決断は刮目に値するなと。編集テンポがテレビシリーズよりほんの、ほんっのっ少し遅くなる(あるいはモニタースケールの違いにより間延びする)ことにより、生活感が各シーンに付け足されているのだ。大女優のゆりの豪華マンションは何か空虚で、そして高倉兄妹の貧しさは切実なものへと微妙に寄っている。そしてギャグ演出ではなにか無理にはしゃぐような"演技"の気配が漂いだす。これらは、単なる気のせいではないと自分は思っている。

 

湖のランスロ ('74 フランス、イタリア/監督:ロベール・ブレッソン)

熱量の低い騎士の殺人行為で幕開け。カーンガンカンブシャー。不倫で抱き合う王妃と筆頭騎士のシーンもだが、音楽で盛り上げようとせずにただ間近で透明人間がじっと見つめているような距離感で撮られた演出(人物の動きもあえてキレが悪いというかケレン味がない)は、当時には斬新だったのだろうか。映画史に疎くて分からない。興味のある題材だったのでつまらなくはなかったけど、特に感じ入ったわけでもなかったですハイ。フランス語読みの円卓の騎士たちは新鮮だった。アルテュス王。ところでランスロの最期がどんな伝承とも違った気がしたんだけど、あえてリアルに考えたらこういう感じでしょというのを映像詩にするという趣向なのかな。

 

家をめぐる3つの物語 ('22 ベルギー、イギリス、スウェーデン/監督:マーク・ジェイムス・ロエルズ&エマ・デ・スウェフ、ニキ・リンド)

ストップモーションアニメのオムニバス。家屋敷や不動産への執着を、時代を変えてドラマにしている。捻りの利いた…というか皮肉な視点でキャラクターが取り扱われ、バッドエンドで章の幕が下りたりして、人形アニメに付随していた先入観を裏切る意外性が鮮烈だった。そしてセットやキャラクターモデルが質感たっぷりですごく良い!特に第二章主人公のネズミさんが…すっごくドブネズミしてて良い!!(この章は虫回でもあるので、苦手な方はほんとうに悶絶ものだと思う)…全体的には固定資産への執着という現代人にとってまことに切実なテーマを容赦なく裁断する内容なのだが、ちょっとしたカタルシスも用意されているので、やはり最後の第三章がいちばんおススメ。猫が好きな人らが作ってるんだなーというニヤニヤ面も大いにあるよ。

OVA「真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ」('00/全4話 監督:川越 淳)

タイトルで味方のロボット同士がガッツリ戦闘しあうストーリーを連想するが、組み合いません。というか二体並んで立ってるシーンすらありません(OP除く)。かつて昭和年代に子どもたちを映画館へ吸い寄せていた「東映まんがまつり」へのオマージュをストーリー構成とタイトルとで形式としているわけです。いきなりネタバレすると、比較的運用が安定しているネオゲッターロボがストーリー後半に動かせなくなることにより、危険度が高くて封印されていた真ゲッターロボに主人公たちが乗り換える形となる。そこからさらに"神ゲッターロボ"へと進化します。

さて、実質一時間半というまさにプログラムピクチャーに最適な尺で製作されている通称『ネオゲ』です。ちなみにゲッターOVA三作では個人的にイチオシ。まず何が佳いかというと、全4話という短期決戦型コンテンツゆえにおそらくは第一線級アニメーターを揃えることが可能だったために動画のみならず画面の据わりを決定するレイアウトからキメッキメな点。もうこれは修辞抜きで全カットいい。全カット画角が快感。さらに地味なところでは、背景美術が筆痕が残ったような昭和の東映アニメっぽさを意識していると思われる凝りよう。メカに生物めいた弾力性を持たせてあるかのようなアニメートとともにパッと見で気付かないレベルでもまんがまつりオマージュは通されているわけです。

そしてロボットアニメとしての見せ場と見せ場をほとんど強引で出たとこまかせにすら見える手腕で繋いでいる構成。これはまた、本作の下敷きの一つとなっている"ゲッターロボサーガ"の特長を巧みにとらえている点であり、なおかつ昭和のロボットアニメ一般のパスティーシュにもなっている。明朗快活な基調で演出されながらも、アメリカとの屈託をにじませる共闘展開、人種間闘争による領土侵攻を想起しなくもない恐竜帝国とのふたたびの攻防など、昭和の戦後ドラマツルギーがほのかにまぶされているあたりも単なる外連味以上のスパイスになっているといえるかもしれない。さらにいえば、天涯孤独の未成年である號が富裕層のための闇プロレスで賞金稼ぎとなっている設定のほの暗さ、テストパイロットを使い捨てにして表情を変えない司令となった隼人、戦死する際にかならず皇帝の名を叫ぶムーブで洗脳に近いものを匂わせるハチュウ人類などダークさでいえば他のOVA二作にけっして引けを取ってはいない。

ただし、あくまでメインコンセプトは「東映まんがまつり」なので、その分は他のキャラクターをコミカル成分たかめにすることで全体の雰囲気のバランスを取っている。具体的にいえば、東映旧作のメインパイロットであった竜馬が武蔵殉職の傷心から世捨て人になっていて肉弾戦サポート役として山猿のように跳ねまわったり、敷島博士が味方をも研究材料にしかねないマッドサイエンティ…ストなのはいつも通りだった。(そういえば早乙女博士が正気の人だったのはどう解釈すればいいのかな。あのキャラは常に最初から狂っていないとゲッター線の得体の知れなさが引き立たないんだけど、彼が人類防衛の目的と手段を転倒させてないって描写そのものが本作のゲッター線の希望的解釈と捉えるべきか。)

ゲッターロボの作品世界に慣れていない場合、突然に展開されるストーリー、描写が極端なまま変化していく戦況や局面、SF考証やる気あります?という大道具使い(テキサスマックの乗馬だけは自分は今も納得してない)にどうしても戸惑ってしまうと思う。自分もそうでした。しかし何周か視聴を重ねていると、テラフォーミングと攻撃を同時に行う巨大円盤や、その機能によって自ら巨大ロボット化するハチュウ人類の帝王ゴール、人類にとって福音なのか破滅の前兆なのかやっぱり分からないゲッター線の謎エネルギー放射など、イメージパンチ優先のつるべ落としこそが他にない魅力として受け入れられてくる。そして最大最後の番狂わせが、ほのぼのとした気楽な雰囲気で終幕する点である。…まあそれが番外編としてつくられた「東映まんがまつり」オマージュの規定ラインなのだが、他シリーズでパイロットたちが辿る運命と比べる時なんともいえない余韻が味わえるのよ…

ともあれ、戦勝国アメリカとの対等な共闘!いまだ残る大戦の記憶の克服!不安もあるけど科学進歩への希望! という昭和子ども番組三大テーマをさりげなく盛り込んで、平成の世にプログラムピクチャーの王道を蘇らせた本作、アニメーションの傑作としてもっと広く評価されても良いのではと思う次第です。

すべてが3Dプリンタ女体・中二病突破主義・メスゴリラナイーヴ宣言になる。

攻殻機動隊SAC‗2045」全24話 (監督:神山健治×荒牧伸志) を視終えた。やりたい放題度では攻殻史上「イノセンス」と並ぶのではないだろうか。前半ではエピソード同士の繋がりの見えなさが散漫に思えたりもしたものの、振り返ってみるといつも通りに作家性が高いシリーズになっていた。

サスティナブル・ウォー、すなわち『持続可能戦争』という架空の概念(オーウェル1984」からの借用)が本作の背骨となっている。それは米帝がAIを用いて世界の論調を操作して生み出した新たなる戦争の形(なお、具体的な描写が乏しかったために私はその全体図を結局最後までつかむことができなかった)。いうなれば、"終わりのない日常"と表裏一体の"終わりのない紛争"、小競り合いを永遠に繰り返すことを必要悪として認める世界観がそのタームには籠められている。産業的に持続可能な戦争を恒久的に果たすためのツールとして米帝が管理下に置くAI。その人工知能は自らをウイルス化して人間の電脳に感染させるという暴走をやがて行うことになり、そうして生みだされたのが今回の敵である『ポスト・ヒューマン』だ。彼らは人間ではあり得ない動きをやってのけ、高い殺傷能力と冷徹な判断力を持ち、持続可能戦争を果たす目的に邁進するために本来の人格を上書きされてしまう。しかし草薙少佐率いる9課は例外的なポスト・ヒューマンをやがて捜査線上で見出すことになる。ありふれた男子中学生のシマムラタカシだ。

さてシマムラタカシの登場により、物語のレイヤーは不透明度が増すことになる。一言でいえば、現実と妄想の境界線がはなはだ不明確になるのだ。タカシがかつて幼い従妹を失った過去の出来事(80年代の邦画「野生の証明」を少し思い出したりもする)、元空挺団の中年男、眼鏡をかけた生真面目な美少女委員長。すべてが嘘くさいというか、昭和年代のジュブナイルのシーンを繋いだように薄っぺらいのだ。しかし更なる混乱に視聴者を陥れるのは、シマムラタカシのノスタルジックな内的世界に、9課の一員であるトグサが巻き込まれてしまうことだ。彼は元空挺団のおじさんが駆るトラックに同乗して仲間たちの前から立ち去る。ト、トグサくん!とっくに新人ポジから抜け出したと思ってたんだけど。

これ以後、もう何が基底現実で何処からがポスト・ヒューマンの頂点であるシマムラタカシが他者の電脳をハックして見せているフェイクなのかが判別不能となる。トグサが過去に潜入捜査でしくじって遁走した雪原も、眼鏡委員長カナミの実在も、復興計画が絶賛遅延中の東京でタカシの賛同者たちが集う桜まつりの屋台も、すべてはノスタルジックな虚構なのか、男子中学生の空想フィルターがかかった現実なのか。フル3DCGという制作スタイルも相まって、リアリティラインはずっと宙づりのままストーリーは進行していく。

ただし、まさに中学二年生の男の子がノートに書き綴ったようなドンパチ展開は多彩に繰り広げられて、ミリタリーアクションとしては満足度は高くサクサクと飽くことはなく楽しめる。私のイチオシはルーフトップから上半身を出して重機関銃を連射するミズカネスズカの追撃。なお、ミズカネはタカシの側近であるタイトスカートの秘書のような眼鏡美女だが、二人のなれそめはまったく描かれないので一際リアリティの薄いキャラクターだ。なろう小説か?なろう小説なのかな?タカシはなろう作家だったりする?

やがてシマムラタカシとミズカネスズカは、米帝原子力潜水艦の食糧用3Dプリンタで義体を転送する奇策によって瞬時に艦内を制圧することで、米帝を相手に独立国宣言を行う。シマムラ率いる集団は自らを『N(エヌ)』と名乗るのだが、Nとは何を意味するのかは劇中では特定されない。ニュージェネレーションかもしれないし、ノスタルジー主義かもしれないし、NETFLIX愛好会かもしれないし、なろう小説宣言かもね?(自説への固執) 9課、N、米帝が送りこんできたNavy SEALs重機装部隊(デザインがとてもAPPLESEED色濃くてわくわくする)の三つ巴の激しい交戦のすえ、原潜から核ミサイルはとうとう発射されてしまう。そして世界は…  どうなったか分からない。なおシリーズ終幕でもはっきり明示はされません。基底現実はここで一旦壊れてしまったとしか自分は解釈できなかった。たとえてみればジョジョ第六部みたいな感じ。

さて、考えこんでもしょうがないストーリーの解釈については観た各々がやればいいってことで、ここは終盤でシマムラタカシと草薙少佐が一対一で会話するなかで、タカシが少佐を称した『まれなロマンチスト』という言葉に焦点を当てたい。自分はこういう(ああ、これを音声として上げたくて作品にしたのだな)というセリフに弱い方で、"ぐだぐだ言わずに黙るか偉くなるかしろバーカ!"みたいな意味で解釈されがちな、攻殻さいだい有名決め文句の、返句になっているように受け取った。少佐が戦うのはお金とスリルのためだけじゃない。彼女もまた、人類がもっと自然なプロセスを経て新たなステージに移行することを信じて行動している一人だったと劇中で明示された瞬間だった。だからこの数秒だけでもう断然好きですね、このA級ポリティクスミステリーをB級サイバーアクションでまぶした作品。…にぎやかしキュート新人として登場した江崎プリンが、ポスト・ヒューマンと人間とを橋渡しする存在として草薙少佐に背を押される希望の示し方もソフトな着陸点として成っていたし。

シマムラたちが目指したダブルシンク二重思考)の理想世界。現実と妄想とを等価に扱うのが人間の弱点でもあり強みでもある。ゆえにネットで不毛な炎上騒ぎもしょっちゅう起こるし、かと思えば理念を形として現実を刷新したりもする。ただ問題は、ポスト・トゥルースの時代においてダブルシンクの統制を独占的に行おうとする者が現れるシステム由来の脆弱性だ。そのアクチュアルな課題へと、ポエティックに過剰に寄らず、安易なイデオロギー揶揄にも堕さなかった手腕はさすがの矜持だと思う。

(追記:無人島のような旧首都で桜まつりを楽しんでいる『N』たちの姿は何かを思いだすと考えていたんだけど、「ニコニコ大会議」が盛り上がっていた時の印象だった。そしてそこで集う人々が名指しで異端者を狩り出す時に使う言葉『N(えぬ)ぽ』。こちらは匿名掲示板発祥の「ぬるぽ - Wikipedia」を思わせる。…トグサが迷い込んだイメージ継ぎ接ぎ世界は、当初はシマムラタカシ個人の過去心象とトグサ本人の記憶とがシームレスになった領域かと考えられたが、第12話『すべてがNになる。』以降、画面に映るのはNたち全員の"あったかもしれないが決してなかった/あってほしかったがないと認めざるを得ないゆえに切望する疑似ノスタルジー"の鏡像として意識して視るのがあるいは正解なのかもしれない。とはいえその手法が作品として十全に成功しているかといえば、保留の印が付く。)

 

2022年5月に読んだ本

東京ゴースト・シティ

人気のある都市というのは、大概が過去に生きた人々の痕跡がじんわりと肌で感じられる。知日家でもあるナンセンス小説の名手ユアグローが、出版社の招へいに応じて短期逗留した東京都内の各所をモデル(エピローグでは思わぬ場所に意外な人選とともに跳ぶが、エトランゼとしての自意識が為せる業かもしれない)に、過去と現在とひと昔とちょっと先の未来とがマーブル模様に交じりあうTOKIOの喧騒を幻視しつつ居酒屋巡りで喰いだおれる。もっと遠慮のない観察眼がそのまんま出ていても良かった気がするけど、友人の多い国への半ばエールもこもった創作エッセイとしては十分楽しい。

 

ヌマヌマ

ロシア文学の翻訳者であり、第一線の愛好者でもある沼野夫妻による、現代の精鋭たちの短編アンソロジーサイバーパンクあり、詩情実存あり、リアリズムあり、越境者文学あり、サイコホラーありで、その幅広さ自体に今まさに隣人としてあるロシアの等身大の姿がこれまでにない鮮明さでイメージされてくる。夏に過ごす畑付きの質素な別荘、当然の帰結としてほぼ汚いものだけで構成される学生寮という名目の貧民アパート、相互監視のうっすらとした緊張感の漂う都市のルーティーン。これまでとは違う解像度で紹介される近くて遠い大国の姿に、そこで綴られてきた儚さと強靭さとを併せ持つ文学の営みに、あらためて魅了された。特に、時空をシームレスに行き来する超絶技巧を難なく駆使する『バックベルトの付いたコート』(ミハイル・シーシキン)はオールタイム・ベストもの。ほか、語りの騙りを用いた『空のかなたの坊や』(ニーナ・サドゥール)も人物像への適度な距離感がユーモアと哀切を生んでとても佳い。