2023年12月に観た映画

窓ぎわのトットちゃん('23 監督/八鍬新之介)

子供が二人、かたわれを手助けしながら木に登る。その木肌の荒くてしかしどこか親し気な手触り、陽ざしのやわらかさ。あるいは初めて大勢とプールで水遊びする時の、くぐもった音の響き方。世界へのどうしようもない壁の高さにただ立ちすくむしかないながらも、親や先生の庇護のもとで見つめることを第一の仕事とできたあのチャイルドフッドの日々。真の意味で子供の視点に立った映画がすくないことが本邦の映画の弱点だったが、ここに屹立と傑作があらわれた。大人は弱くて剛く、子供ははかなげで強靭。その二面性を示すためにホラーチックな表現が用いられているのが最も印象的。未来の自分に言い聞かすかのように駅の雑踏でセンテンスをつぶやく泰明、エゴを持たない聖職者像をみずから破壊してくる炎の目の小林。あと汲み取り便所の臭さ、汚さを覆い隠さず描いてきた覚悟に恐れ入った。(さすがの小林先生も一瞬止めようか迷っておる…)

 

RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる('22 監督:幾原邦彦

前編よりも新規作画の割合がグッと高くなった印象で、映画としては断然こちらの方が面白く感じて没頭できた。終盤、主人公たちのアイコン的存在であるペンギンたちが暗い寒空のもと氷河をみつめるシーンで、ああこれは時代の方がテーマにいよいよ追いついちゃったねと。私たちはもう常に氷の時代に生きてる。息をしようともがいてる。でも答えは、常にひとつしかないんだよね。宮沢賢治が100年前に伝えようとしたみたいに。

2023年12月に読んだ本

地球にちりばめられて

国境という区切りに沿う形で規定される言語とは何なのかというのは作者のメインテーマであるわけだが、その集大成的な雰囲気を感じるシリーズ第一作。日本という国が消滅した近未来、ジェンダーや人種が様々な若者がゆるやかにチームをつくり、かつて存在した“日本人”の存在を探しに旅にでる。どこに到着する物語なのかが気になる長編。

2023年10月に読んだ本

最後の三角形

「タイムマニア」は片田舎で幽霊に導かれた少年が町の住民が複雑に絡む犯罪の謎解きをする。その過程でインフェルノを垣間見たり、同級生とのほのかな恋を経験するという一際ふしぎな味わいの一篇。グラント・ウッドの絵画を前にした時のような"のどかな無限地獄"としてのカントリー風景が脳内で浮かんでくる。表題作「最後の三角形」はミステリ仕立ての読み口、疎外という社会問題、そして徐々にあらわになるオカルト色と多層的な構造で忘れられない読後感を残す。なかでも印象を残されるのは恋愛のような関係性のあまりの幅広さ。多様性というイシューを無視できない作家としての誠実さも感じる。総じて、姉妹編『言葉人形』よりもややオポティミズム寄りでユーモアが漂う短編が多くまたロマンス要素も強め。技巧の精緻さはそのままに読みあたりはこちらの方が柔らかい。

 

寝煙草の危険

ただ自分らしく生きようとするだけで罰せられる。女性にとっての煉獄であるこの地上では、気付かぬうちに自らの失火で死ねる悲劇すら救いのある昇華行為なのかもしれない。表題作は孤独な老女の内面世界を綴ったものだが、他は集団の中で充足感と一体化した息苦しさを感じる様々な年代の女性の心象風景を感じさせる作品が多い。クイーンビーである人気者を無視できないティーンエイジャーが沼地から離れられない『湧水池の聖母』、中流階級住宅街がゾンビ群に侵食されていく様子にリアルな不安を感じる『ショッピングカート』が特に鮮烈なイメージだった。

 

天に星、地に花、人は怨 -NETFLIX『陰陽師』-

多分に伝説的な人物である安倍晴明を主人公とした夢枕獏による小説シリーズ「陰陽師」はこれまでにも沢山の映像化、漫画化が成されているが、このNETFLIXが全13話のアニメシリーズとして製作した『陰陽師』はそのなかで最も地味なルックの作品となるのではないかと思われる。しかしそれは企画の消極性を意味するのではなく、むしろメディアミックス同タイトルがいくつもある中での差別化に成功したのだと主張するのがこの記事の目的である。夢枕による小説は未読だが、おそらくは原作をも含めた安倍晴明ものの中で、等身大の人間としての晴明を描き出す点に最も狙いをフォーカスしたのがこのネトフリ版『陰陽師』だ。

たむらかずひこによる端正だが線が多くならないように調整されたバランスの取れたキャラクターデザイン。格段に華美ではないものの親近感を持ちやすく表情を豊かに付けやすいラインで描かれる本作の登場人物たちは、例外なく心の裏面である妬みや嫉み、あるいはそれを受けての心の傷を持っていると過去のエピソードやダイアローグによって示される。一見して雅やかで静謐にみえる平安時代の宮中が主な舞台となるがそこで横溢するのは表立って争いがないゆえの陰にこもった誹謗中傷であり、限られた官職をお互いに牽制しあいながら奪いあう貴族たちの閉ざされた心の冷たさ。それらのリアルな描かれ様で平安の世と新自由主義による格差が拡大しつつある現代の日本とをストレートに接続しようという基本演出が読み取れる。そしてこれまでのメディアミックスのなかでは、“狐の子”と蔑まれ恐れられる晴明はそれら人間関係の喜怒哀楽から一段たかい場所で俯瞰気味に構えている構図が多く採られていたが、本作ではシリーズが後半にすすむにつれ唯一に友人といえる源博雅(みなもとのひろまさ)が、超然としてみえる晴明の心に孤独がふかく根付いており彼もまた他の人間と変わらない精神構造を持っていると知っていく趣向が最大の特徴になっている。

安定した官職に付くために宮中歌合せに臨んだ貧乏貴族が絶望して自死したあとに亡霊と化すエピソードなどは、たとえば活劇アクションのスケールではかるとすれば少々矮小に感じられるが、オカルト異能力ストーリーというケレン味以上に心理ドラマを重視した本作では、心を揺らす自制心の喪失はすなわち内面のおおいなる危機であると表現される。それは十分に人を破滅させ殺す可能性を持ったもので王朝文学においては「鬼」と名付けられた心性と現象なのだが、そのともすればかび臭く古めいて感じられる観念を現代のエンターテインメントにおとしこんで描くための真摯さがストレートかつ自然に感じられる。

また、『堤中納言物語』内の「虫愛づる姫君」をアレンジしたエピソードにおいては自分の感性をつらぬき世間から孤立する不安にスポットが当てられるが(財を持つ貴族の娘であるエクスキューズ一点においてやや力任せに問題が解決されるものの)のちの晴明の心の変遷のための補助線として機能するなど、個々のゲストたちの個性を埋没させないように気を払いつつも関わった騒動からの影響がクライマックスにおける晴明の行動に現れるというシリーズ構成の巧みさが非常に堅実であり、オーソドックスなテーマである“孤独が生む孤立と絶望からの回避”安倍晴明ものでかたる新鮮さを成立させる。


時の天皇を『あの男』と無造作に呼び捨てる晴明の出自は劇中でそれとなくほのめかされるに留まるがおそらくは誰よりも血筋としては高貴であり、また「陰陽師」という平安京における天文学者と占い師とを掛け合わせたような役職における才能を最強に持つ晴明にとって、真実の敵はみずからの内側にあった驕りと諦念だと俗物きわまる大臣からの捨てセリフがもっとも鋭く指し示しているわけだが、同様に兄弟子の賀茂保憲の振る舞いの冷たさが必ずしも敵意だけでなく実の弟のようにともに育ってきた晴明への労りが垣間見えるように描かれるのが、設定の破綻ではなく人間が心にはらむ矛盾が負としてだけではなく時には正として働くという社会の一筋縄では行かなさを徐々に作品に彫り込んでいく。その醍醐味はやはりシリーズものならでは。

天の星で国の未来を読み、地の花をめでて人の心を知る。そしてそれらの回転のうちに怨みと慈しみのたえまない円環を見出す。陰と陽。生まれ持った特質ゆえに孤独だった晴明とかざりけない人柄のあたたかさで輪の中心となる博雅。物語とはタペストリーを宙に織り出してそこに情を刻印することなのだと教えてくれる佳作だった。抑えめながらも陰陽術の特徴を表現したエフェクトと、彩度と明度にこまやかに神経を払った美術もすばらしい。もっと多くの人に広く視てもらいたい作品。


2023年10月に観た映画

大いなる自由 ('21 オーストリア、ドイツ/監督:セバスティアン・マイゼ)
ざらざらとした光線の撮り方が実にドイツ風土のイメージに合致。まるでブルーフィルムが上映されているかのような冒頭の審理シーンが、性愛というプライベートの最たるものを成人同士の合意という条件に関わらず隠し撮りされるというシュールさと権力の有無を言わさぬ横暴な冷たさを印象付ける。さらに精神的な残酷さを示すのが、同性愛の恋人が飛び降り自殺を実行した後に、何の説明もなく懲罰房から中庭に出される主人公のシーンで、まるで看守たちまで彼の反応をうかがいみて楽しんでいるような空気が伝わる。そこでもう一人の主役格の囚人が起こした行動が、人間が人間である事のかろうじての証を立てる。ラストシーンの主人公の振る舞いともども、現実では目の当たりにする可能性が薄い展開だが、共感と愛という人と人の間に流れるべきものを同性愛抑圧者たちの方こそが見失っていると示すメッセージとして鮮明に焼き付いている。男性同性愛処罰の刑法が廃止されたのち、出所した主人公の身の振り方には『自由』の意味をあらためて考えさせられる。自由とは欲望の放埓の事ではなく、誰のそばで生きるかについて決める意思の問題なのだ。

ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地 ('75 ベルギー/監督:シャンタル・アケルマン)
会話は少なめでとにかく生活音が画面から始終襲いかかってくる。特にジャンヌ自身の靴からのかかと音がせわしなく耳障りで、彼女が徐々に傾いていく神経症的な世界を追体験する呼び水となる。毎朝毎朝、几帳面にホテルのベッドメイクのように折りたたまれる息子の寝台兼ソファ(機構があまりにも完璧で感心した)、代り映えしない夕食のメニューを表情を変えることなく一定のリズムで作りつづける主婦ジャンヌ。彼女の日常サイクルが狂いだす時、それは精神の突破口とはならずに秩序からの追放を意味する破滅を招きよせる。人生に落とし穴が多すぎる以上、自分の心を押し殺して社会システムに尽くすよりも納得のいくように生きる自由さこそが宝なのだと思う。

2023年8月に観た映画

バービー ('23 アメリカ/監督:グレタ・ガーウィグ)
序盤のバービーが朝の支度を終えて家を出るまでが自分の中で最高潮だった。遊ぶ子供の手によってふわりと下へと降ろされるようにカーポートへと舞いおりる。あるいはその後からはプラスティカルで平面的な空間から抜け出た方がメリハリが効いていてよかった気もする。マテル社で働くシングルマザーと娘の脚本上の働きも中途半端に感じられたし、やや退屈な二時間弱だった。やはりそもそもが、バービーというIPに興味を持ってないのに観に行ったのが間違いだったのかも。

カード・カウンター ('21 アメリカ・イギリス・中国・スウェーデン/監督:ポール・シュレイダー)
人は必ず間違えると、ギャンブラーの主人公は旅の道連れになった青年に話す。だがそう語った本人が、自分が結果として間違った判断をした事にすぐに気付くという展開の意外性と苦い深み。そしてさらに間違いを深める行動にはしるやりきれなさ。人生のカードは決して読みきれないと示すために、あえて逆接として80年代の華やかなカジノ映画をパスティーシュした撮影が興趣を添え、その対照であるアメリカ軍による中東の捕虜収容所のシーンが断片的ながらずっしりと印象を残す。そしてラストシーンの意味。生きてる限り、何度でもやり直さないといけない。それは希望というより義務なのだと思う。

古の王子と3つの花 ('22 フランス・ベルギー/監督:ミッシェル・オスロ)
ビビッドなのに調和がとれてシックでさえある色彩感覚で語られる、真・善・美の3つの物語。吹き替え版で観たが、舞台劇の発声に近い声優の演技と音響効果の素晴らしさが際立っている。影絵の趣向で描かれる二つ目のエピソードが特に印象に残った。放逐された王子が勇気や優しさ、機知で幸福をつかむテーマの通底に、心励まされる映画。

2023年8月に読んだ本

オレンジ色の世界

吹雪の山頂で開かれているパーティーでタダ飯を食うために凍えながらリフトで運ばれる親友同士の少女たち(パーティー客たちは「シャイニング」のホテルの人々のような存在感)、滅び浸水した世界でゴンドラを漕ぐ姉妹たち(ヒロインの容姿に対してのこちらの先入観をゆさぶってくる叙述)。角度を45度変えると光線も意味も違う様相を見せる。時間も関係も静止したような世界で、しかし色彩と肌触りはいまだ見る者に何かを語りかけてくる。


覚醒せよ、セイレーン

欧米では学校のテキストにも採用されているというオウィディウス『変身物語』に登場する女性たちの声を、彼女ら自身の中から聞き取って、略取や強姦、冤罪から来る深い嘆きの視点を再構築する短編集。なかでも現代のシチュエーションを採り入れた長めの作品の印象が強い。父や夫からDVを受けるミュージシャンの生活の言葉を綴った『エウリュディケ』、資本主義のもとで教条化したスピリチュアリズムを赤ん坊の育児に取り込む自慢げな新人ママのおしゃべり『アルクメネ』、楽しい旅のガイドが徐々に凄惨な復讐の様相を活写していく『プロクネとピロメラ』。かと思えば、長年連れ添ったパートナーとの間の永遠に続く埋もれ火のような絆を語った『バウキス』は古典を清新な言葉で語りなおす試みで、最高神ゼウスの姿を直視してしまう『セメレ』はタイポグラフィのスタイル。海を泳いだかと思えば地をのたくり、まばたきの後には風を縫って翔ぶ。意識下のおもむくままにギリシア神話の人物たちの主体を語った著者の自由な姿勢が、あらかじめ奪われていた女たちの声を集め、束ねていく。