ゾディアック('06/アメリカ)

うーむ、これぞまさしく「アメリカン・サイコ」。序盤、穏やかな湖畔での休日の最中を襲撃されたカップルが連続殺人犯「ゾディアック」にめった刺しされるシーンの恐ろしさには本当にゾッとした。あまりにも日常と地続きすぎて。その抑えた演出性の鍵は、サスペンスのそれというよりも人間ドラマとカテゴライズされる映画で用いられる撮影手法にある。少ないカット数で固定された印象のカメラと、シックに仕上げた色彩調整。それが示すのは、優越心理争奪社会(アメリカを数十年遅れで追いかけると言われている日本の未来の姿でもある)にいる限り、誰しもがいつかどこかで遭うかもしれない唐突な惨劇。それが実感されて、ざくざくと肉体に無造作に押し込まれるナイフの刃の音が耳について離れようとしない。ナイフを突き立てるのは自分の中の身勝手な憎悪であり、ナイフを突き立てられているのは他者に無関心な自分であり…そんな妄想が脳内を巡る。70年代アメリカ社会の関心を呼んだ「ゾディアック事件」は、有力容疑者こそ特定された(拘留中に心臓麻痺で死亡したらしい)ものの、結局のところは未解決事件のまま。関わったマスコミ関係者や警察当局担当者などは次々と失脚に近い形でゾディアック事件から遠ざかっていき、最終的に追跡者として残ったのは、新聞社内の変人で鳴らす家庭では愛情深い父である風刺漫画家。彼が深夜の無言電話に精神的に追い詰められながらも、独自の再捜査によって結果的に真犯人としてほぼ確信できる「ゾディアック」本人と相対することができた-個人としての特定はすなわち社会怨嗟犯の敗北を意味する。その時点で一般化されたルサンチマンは矮小な私怨とダウンサイズされるから-のは、彼が群集心理から十分に距離を置いた純真な性格であり、それでいてコミュニティから疎外されていなかったという一種の強さを持っていたからかもしれない。…さて、その終盤においてさえも、風刺漫画家に見出されたのは“単に最も有力な容疑者”に過ぎない。その点においても、メディアの巨大なトピックにまで行き着いた事件における捜査の難しさを浮き彫りにする意図が観ていてややこしいまでに徹底されている。その他の描写では、『ゾディアック』の電話をうけた財産家のハウスメイドが、別件で訪問していた風刺漫画家と雑談を交わす中で「ゾディアック」が自分の誕生日を洩らしていたと明らかにするシーン。この情報をなぜ当局がつかんでいなかったかが不思議になるが、それは単純にメイドに聞き取りをする機会を持つ発想が現場で生まれなかったということなのだろう。「ゾディアック」の筆跡と酷似した筆致の手書きポスターが、それを提供した証言者本人の手になるものだと判明するくだりも、それが実際に事件と関係していたのかどうかどうにも分かりづらかったりする。が、それこそがおそらく制作側の思う壺(…なんだよね?)。