東のエデン 劇場版I The King of Eden

(おいおい、辻と白鳥のキャラがTV版と違うじゃねーですかよ。後者がカマキリ女のイメージから脱却したのは展開的に納得できるとはいえ、辻がオネエ系ほのめかしてるカッティングエッジィなベンチャー勝ち組になってるのはどうゆうことよ。見当違いな予想ぶっこいてた自分が恥ずかしいじゃねーかよ)
全体的に、TV版よりもアニメ一般の作法が演出に入ってるのが興味深かった。キャラクターの所作が見得切り的、静止時のキメ具合を意識したかのような描かれ方(まあ自分はたとえば咲との再会時の滝沢の方がTV版でのナチュラルさよりグッときてしまうわけですが)で、こころなしか顔立ち自体も原案の少女漫画色から外れはじめているようにも見えた。あと心理が表情に出る場合、TV版ではたとえ主人公やヒロインでも、自らの感情に沈静している瞬間をほとんど描かないようにしていたのが比較して分かったりもした。現代社会では、たとえ自分の心の中だとしても“主役”として振舞うのは好まれないというわけ。
さてストーリーとしては、TV版から半年経って行方不明の滝沢を探しに再々渡米する咲の様子から始まる。NYへ入ろうとする高速道路の状景は日本のそれとあまり変わらないのはやや示唆的か。他のセレソンの妨害や横槍、補助を受けつつ、アメリカが生地であることがぼんやりと思い出された滝沢が、咲をともなって日本へ戻る機上の人となるまでが描かれる。
咲との絆が深まる描写もあるものの、主軸の要素にアメリカへの距離感が盛り込まれたように思うが、その手に負えなさすぎるスケールへの担保として、メタへの目配りを含ませたように感じるのが映画制作にふけって滝沢をストークするセレソンの一人の存在。映画は、滝沢が唯一握る“記憶への鍵”としても幾度もモチーフに使われるのも気になる(それにしても一度ならず二度までもあっさりと自分の記憶と過去を手放す滝沢には不穏な精神構造が匂うんだけど…)。その目配せが、単純な風呂敷畳みの布石だけでない事を、後編を観るまで祈っていたい。

しかしパンツの颯爽たる登場ぶりには笑わせてもらった。だからそういうキャラじゃないのでは… まあそういうならば、ニートの語義が以前のモラトリアム世代との混同が甚だしくなってしまってのも「うーむ」なんだけど。