戦う司書#26「贖罪と惑と本の中の本」

冒頭から価値の転倒に次ぐ転倒。ラス前にきてよもや新しい趣向が来ようとは予想してなかった。もしかしてハミュッツにとっては、手当たり次第に投石で仕留めることが愛の移入だったのか? そもそも彼女にとって死とはどういう概念なんだろう。愛を恐れるのは育て上げられた『道具』(実質的に彼女の父といってよいマキアは気を病みながらも企みを放棄もできず…ああいう死に方をしたのも自分を罰したのと半々なんだろうな)としての存在意義をなくすのが怖いから。死ぬよりも恐ろしい無価値。しかし自らの無価値を恐れるのは他者への渇望あってこそ。価値の転換はめぐり、ハミュッツの思考の出口は見つからない。そこを救うのが第一章で命尽きたコリオと彼の中のシロン…ということでこの回ですでにシリーズとして円環が繋がってるのが抜かりない印象。しかしハミュッツがどうしてルルタの仮想臓腑に入り込んだかが分からない。(自分の見落としでなければ)これは最終話に持ち越された伏線だろうか。
一方、ハミュッツの死への苦痛を快楽とする特殊能力(というか性向というか)によって戦闘意欲を失ったルルタは最終手段として自分の能力を滅亡の意思そのものと化したニーニウへと移譲する。迷ったすえに他者に舵取りを委ねてしまうかのような主体性のなさ。その象徴でもあった無色の髪に混沌の色(ハミュッツと同じ漆黒)が付く表象が示すように、苦い認識をようやく経た後に彼もまたコリオたちから、繋がることで変わっていく世界の可能性を教えられる。
…書き出してみると、これは繋ぎ回とするべきかもしれない。しかしそうと見做すにはあまりに濃厚な一話であった。生と死、愛と憎しみ、絶望と希望が目まぐるしく物語上で入れ替わり、演出においてはシリアスとコミカル(ルルタはハミュッツの投石にエクスタシーを感じてニーニウとの一夜を反芻し、小悪党シガルは最後の一人芝居を披露する)さえ交錯される。シナリオの力技も評価すべきなんだけど、なによりすべてをきっちり編み締めるコンテ仕事がすばらしい。空間を意識させる間が画面にあるか否かで、尺内のテンポは決まるのだなとまざまざと(あと前回、前々回よりかは動画や引きにおける作画の荒れさえ気にならない)。それにより、こまかい点が分からないはずなのに、全体として妙に納得させられてしまうのだから映像作品とは不思議だ。

もうひとつ、今回の内容をまとめあげていたのがミレポックが館長代行室でヴォルケンの本を読むシーン。秩序の象徴であった代行の死を目のあたりにし動揺して怯えきった彼女に前に進む力を与えたのは想い人の死の真相。不運な出来事を知ることが必ずしも悲劇に繋がるわけではないという言外の描写。