「ガッチャマンクラウズ」第5話『 Collaboration(コラボレーション)』

クラウズメンバーのひとりが持つ自分への不満を解消しようとした累がネットを介して会話をやりとりするビル屋上のシークエンスが、派手な動きがないのにかえって魅せてくる。議論が行き詰っていよいよ気が昂ぶってきた累が、古典悲劇のようにひとりで身振り手振りを激しくする様は、彼の内向的な性格を表すと同時に物語上での立ち位置をも確認させる。累が持つ理解されない苦悩への共感は視聴者にとって易しいが、同時にそれはもはや表現として古くアップデートの進度の遅い個人としての在り様であるということを。私たち視聴者は、累に同情するとおなじほどに彼を突き放してみることをここでは求められている。もはや個々に悩みに呻いているほどの余裕はないのだと。
そして、まずは体が自然に他者への苦難の方向に動くはじめの、累の行動様式とは対称的なトンネル事故での英雄的な身振りにAパートとは違ったベクトルでまた魅了される。蛮勇にすぎないかもしれないそのアクションは、ただしく先がみえない。その見通しの悪さに制作者が提示してくるリアルさが浮かんでくるからだ。
それにしても気になるのは、モブキャラクターに主人公であるはじめの面影が投影された人物が複数登場する(今回のN0.26ことウメダに走り寄っていった公園での幼い少女しかり前回での娘を叱りとばしてカッツェに心の隙をつかれた若い母親しかり)こと。はじめの強みは、自我にしばられないフットワークの軽さ。しかしそれは一端あやうい方向に舵が切れれば方向修正がむずかしいことにも繋がる。現代に漂う最大公約数的な社会の空気の、可能性と盲点とが一之瀬はじめというキャラクターに濃縮されている。彼女の持つ内面性は偏在にして固有(累が顕現させた力の形『クラウズ』のように。そしてはじめのガッチャマンとしての姿が累が扮するLOADとシルエットが似ていることには意味が持たされているのではないだろうか)。それがどうドラマの中で描ききられるかに注目したい。