新しい太陽のウールス

新しい太陽のウールス  (ハヤカワ文庫 SF ウ 6-9)

新しい太陽のウールス (ハヤカワ文庫 SF ウ 6-9)

表紙は本編に登場する自立思考アーマーを着込んだセヴェリアンだろうか。このよく喋る中身空っぽアンドロイドに無理やり入り込んだ(乗り込んだ?)シーンは、原住民の女のヒモになるべくどさくさに住居に上がりこむ箇所と並んで笑える。おまえはどこまでちゃっかり据え膳男なんだ。なお前例の原告は「私の中から出てって!(超訳)」「あんたなんか殺してやる!(意訳)」と喚きたてる様がいわゆるツンデレっぽくてたいへん愛らしい。…さて、四部作の後に完結編にして解答編となるべく発刊されたシリーズ最終作だけに、大方のミステリー部分はすでに理解できているという観念が読むこちらがわにあるので、緊迫感みたいなものはこれまでと比べてやや薄め。しかしオーバーテクノロジーを持つ異星人の試練に翻弄されるセヴェリアンのふたたびの彷徨は、まさしく時空と次元を超えるものであり読んでいるだけでその混乱ぶりに同調して軽く頭痛を覚えた。混沌の迷宮においてセヴァリアンは果たして孤独なままだったのだろうか、それとも自らの生涯に納得して最終的には死を得たのだろうか。それすらも物語は明示せずに、昨日の明日、明日の昨日という交互に明滅する時間の可能性のみほのかに匂わせてセンテンスの連なりを静かに終える。「新しい太陽の書」とは敬虔なカトリック信徒でもあるという作者の「聖書」論ではなかったかとふと単純にも思いついた。あの破天荒で時に意味不明な記述を持つ書物は、もしかすると神に近しいこことは違う宇宙に存在する知的生命体が、かつて放縦の限りを尽くした地球人に与え植えつけた戒めの象徴であるのかも… 人類は同じサイクルを繰り返し、よってセヴェリアンが垣間見た歴史のメビウスの輪のように過去と未来が混じり合っていたとしてもそれこそが宇宙の本質なのかも… SFを読んでいて宇宙の成り立ちに思いを馳せることは少なくないけど、この作品ほど淡々と個人視点にこだわって描写すると同時にマクロな状況へと通じさせた小説はあまり読んだ記憶はない。セヴェリアンは庶民の善悪の敷居を超えた場所にいながらも、いつまでも罪悪の意識にさいなまれ続ける。その主観と客観の絶え間ない転倒というアンビバレントさに、名短編「デス博士の島その他の物語」同様の虚構にのめりこむ悦びと哀しさを感じて、しばし越境の感覚に茫然とする。ジーン・ウルフは、評判通りにおそるべき作家でした。