自意識の閾値は時代によって変わる

昨日の同カテゴリエントリでの『自意識過剰』という用語の用い方に自分自身でも違和感を持つけど、それは同時に今の日本において自意識を持つ(言い換えれば道徳規範の源である超自我が自我の上に在る)ことそのものが省みられない状況にあることを示したかった顕れでもある。自意識を80年代以前並みに持っていては90年代以後に急速に固まり膨張し続けている集団意識に追いつけないための、止むを得なさがある(オタク自身の反オタク言説は大半がここに由来していると思う)ことは理解できるけど、だとしたってやはり自意識が平均的に社会に足りてないという実感が自分の中にずっとある。それゆえの軸が歪んだ語彙となってしまっている点は、たしかに否めないのだけど。おっとすでに自意識スパイラル圏内。ともあれ、反オタク言説は自戒を込めたもの以外は話半分で読むぐらいがちょうどいいなと。社会により融けこもうとする方向にしても、距離を置こうとする姿勢にしても、いずれにしてもそれは義務という名の頑なさに傾いた途端に読んでいて息がつまりそうになるものだから。