ハーンと八雲

ハーンと八雲

ハーンと八雲

しかしフランス文学を専攻した物書きの人たちの随筆の印象というものは、どうしてこう決まって延々とテーマを軸としてぐるぐると旋回状態を続けるような構成と語り口なのだろう。ふしぎ。もうこれは、そういうものなのだと観念して雰囲気を味わうしかないなとすら思えてくる。で、そういった煙にまかれるような読後感からつかめたのは、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンを単なる親日家として奉るのでもなく、その反動として日常の雑談レベルにおいては人種差別的な観点で日本人を語ることもあり帝国大学で教鞭をとるほどの学識は持ってなかったというこきおろしをするでもなく、ギリシアで生まれアメリカで育ち、クレオール文化漂う植民地を旅したのちに日本という極東エキゾチシズムの国へと根を張った幻視的な創造力をもったメトロポリタンとして評価しようではないかという提言。たしかにハーンの生涯をたどる記述部分は、分裂気質で矛盾ある発言が混在する文体を持つに至っても無理がないと思わされる。その視点を獲得すると、ハーン本人の文筆を読んでいる時のもやもや気分も悪くないもんだなあと。