自爆テロというのは、自身の存在そのものを凶器とすることで自分の命を賭けダネとし、その事によって“周囲と状況によって物扱いされた”憤懣を表現する方法論なんだな。だから凶行の被告に「命の大切さ」を説いてもそれは礫にはなり得ない。裁くことはできるけど、それは同時にテロ対象の一面をも裁くこととなるはず。ところで私は秋葉原通り魔事件の犯人がなぜ実行までの計画の引き金の原因となった工場を襲撃しなかったのか不思議に思ってたけど、彼がより怨んでたのはもっと漠然とした社会の空気の方だったという東浩紀の解釈がやはり正解なのかもしれない。