ウィザード・ナイト

原書では「ナイト」と「ウィザード」の分冊が、日本ではシリーズ全四冊で刊行。
作者老境の作品で、技巧面はさすがにシンプルになったかと思われたが、終幕の思い切った展開を華麗に飾ることが可能だったのは、基本文体が書簡の形を取った一人称であるからだろう。典型的な召還ファンタジー騎士道物語ながら、描写の細部で鮮烈な印象を与えられる(エルフたちの黄色く輝く眼など)事も手伝って、上質な読書体験を味わった。神と人と妖精、そのさらに上部と下部の世界など、異世界における別次元同士の関係などにしてもすんなりイメージが呑み込みやすく、性的な描写は皆無ではないにしても、ハイファンタジー復権の時代に、ウルフが年若い世代に向けて書いた作品がこれだったという気が自分はしている。人は皆、騎士を目指すように出来ている。そして女もまたその道筋への憧れに無縁ではない。−女性の描き方、エルフ女王ディシーリ筆頭に、悲運のレディ、健気な姫、独立心旺盛の村娘とバリエーションが非常に豊か− そして特筆すべきは、愛らしくユーモラスなマスコット的存在が多々登場することで、饒舌にしゃべる猫、朴訥に会話する頼りがいのある犬、機知と無邪気が同居した幼い少女など枚挙に暇がない。ウルフらしからぬ、それでいてウルフの一面が凝縮されたともいえる作品。

キャロル('15 アメリカ・イギリス/監督:トッド・ヘインズ)

「映画」をつくるとは美について言葉以外で語ることである。
あらゆる感情を曇りガラスや雨粒を通しておぼろげに伝えるこの映画は、すべてを台詞にしないことで、すべてをこちらに預けてくる。
劇中の人物の弁を借りれば『私たちは醜くないはずよ』と。美しさについてただ黙って受け止めることができるのだと。
誰かを特別に大切だと思うことが愛ならば、そこに社会多数の物の見方が入る余地はない。本来はない。映画はその本来を語ることができる。
愛についてまっすぐ向き合うさまを歳若い想い人に見せたキャロルの生き方は、後の方では逆の構図でテレーズから投げかけられる。
この愛という名の美を受け止める覚悟はあるか。
ここまで観客と対峙した映画を、他に私は知らないかもしれない。