「戦う司書」ハミュッツの描写からみるシリーズ構成おさらい

終盤に至るまではその非道ぶりから、また群像劇という作品スタイルからいってもはっきり主人公かどうかすら怪しかったハミュッツ・メセタ。ところが最終二話において脆さと柔軟さをも内面に秘めていた事が描かれ、しっかりと彼女が物語の軸であると示されて幕が降ろされた。今回のエントリはその視点からシリーズを見直そうとするもの。なお各エピソードの通称は原作に準拠したのみで正式というわけでは無い。
#1〜4 『恋する爆弾』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:コリオ・トニス(神溺教団下位信者)
ハミュッツの反応:からくも助けられた形のコリオの行動に不可解さと賞賛を送る。『どうしてだろうねぇ、コリオ…… 何がそんなに幸せなのか…』<ハミュッツの表面からは意図が分からない独断行動、対立組織である神溺教団のいっけん不条理にみえて合理性を極めたかのような教義とが描かれる序盤エピソード>
#5 幕間その1
<ハミュッツに近い部下であるミレポックとハミュッツに反抗心を見せるヴォルケンとの対比と相互の絆を描く>
#6〜8 『雷の愚者』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:エンリケ・ビスハイル(神溺教団下位信者)
ハミュッツの反応:ハミュッツの影はこのエピソードにおいてはあえて薄く描かれている。<エンリケは厳密にはハミュッツの対比キャラではなく、後に登場するルルタ・クーザンクーナと対照されるために配置されたキャラであると思われる>
#9 幕間その2
<ただし雷の愚者編のエピローグも兼ねる。神溺教団上位信者ガンバンゼル・グロフとその直截の配下であったエンリケとの顛末を描くことで、死がまったくの不幸ではない世界観の独自さを描く>
#10〜11 『黒蟻の迷宮』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:モッカニア・フルール(裏切る形となった武装司書)
ハミュッツの反応:自分を殺せる実力を持つモッカニアとの対決が叶って歓喜するも、押し寄せる肉食蟻の大群にはパニックの前兆すら見せる。物量攻撃に心理的な圧迫を持つ描写か? 他者のために命や人生を棒にふる存在に呆れと共感を併せたような表情。<ハミュッツとは最も遠い存在である、はかない心理性を持つ二人の男の奇妙な繋がりが展開されることで、ハミュッツの強さゆえの孤独さが浮き彫りになるエピソード。この章の主役はあるいは、紛れも無くもうひとりのモッカニアであるところのウインケニー・ビゼなのかもしれない>
#12 幕間その3
<ハミュッツとその恋人マットアラスト・バロリーの10年を超えるつかず離れずの関係。あえてバントーラ図書館に接近したらしきハミュッツの出自が不明な事と極めて異常な精神性とが描かれる>
#13〜15(注:#14は総集編) 『神の石剣』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:ラスコール・オセロ(民話に語られる人物)
ハミュッツの反応:準主役級のミレポック・ファインデルが心理上のキャリアを積むエピソードでもあるので、ハミュッツの影は薄い。<運び屋ラスコールの正体が『追憶の戦機』そのものと描くことで、世界の謎を深める。またラスコールが実は石剣が本体であり憑依された人間は「道具」に過ぎないというのは、終盤で描かれる一つの真実への布石。ひたむきな心を持つ三者三様の女を描くことで、それだけでは生き残れないというドライな世界観を提示>
#16 幕間その4
<次期バントーラ図書館幹部候補と目される心理透視眼者ミンス・チェザインの過去が絡むエピソード。シリーズ構成的に浮いているというほどではないが異色回ではある。終盤でハミュッツが何人かの部下と組織基幹の秘密を共有している事実が明らかに。>
#17〜19『追憶の魔女』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:オリビア・リットレット(神溺教団下位信者)
ハミュッツの反応:世界の真相を知りもせず、知ろうともしないまま自らの正義と誇りに命を張るオリビアとその協力者ヴォルケン・マクマーニを「阿呆」と呼ぶも、前者の抹殺には失敗し賞賛の笑顔を浮かべる。幼い頃から知る部下のヴォルケンを手に掛けたあとには虚無的な表情。<他者を使い捨ててでも目的に邁進し、汚い手も平気で使うオリビアはハミュッツの正裏にあたるキャラ配置と言える。ただ、ハミュッツの精神性に匹敵しながらも決してレギュラーキャラとは言いがたい登場率なのがこのシリーズの特異さ>
#20〜22『荒縄の姫君』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:アーキット・クロマ(神溺教団下位信者)
ハミュッツの反応:究極の弱者であり、その怨念の権化ともいえるアーキットの能力にこれまでになく苦戦させられるが、押し寄せる爆撃機を目のあたりにした彼女は歓喜の表情を浮かべる。<その曇りない善意から、最もハミュッツから遠い存在であった武装司書見習いのノロティ・マルチェと図書館のまとめ役であったイレイア・キティが殉死する事により物語は急転直下。ハミュッツの度を越した自虐ぶりも序々に明らかに。果たして本当の「死にたがり」は誰なのか?>
#23〜27『世界の力』編
ハミュッツの点対称に位置するゲスト:ルルタ(バントーラ図書館と神溺教団の創始者)
ハミュッツの反応:精神世界内の決戦時に自らの目的を見失い一時は取り乱すが、天敵であるルルタと最終的に和解。自らの生きる価値を、刷り込まれた役目を超えて見出す。<世界の成り立ちとハミュッツの生い立ちが同時に明らかになる最終章。個人の事情が克服されることで世界が救われるという、ファンタジー作品の定型が用いられるが、そこに至るまでには死の快楽が愛の回路に外部手術によって繋がれてしまったハミュッツの隠された悲劇を描ききる事が条件であった。視聴者は最後にきてようやくハミュッツへの感情移入が許されることとなる>
以下、この考察で示したかった事。
1.ハミュッツ・メセタは無感情ではない
 ハミュッツが敗者に対してみせる表情の複雑さ、また自分が決して得られないと悟っていた共感の力についての畏怖(たとえばコリオがシロンとの繋がりで得た行動の瞬発性、たとえば殺しても殺しても現れる同調能力を持つベンド・ルガー)はシリーズをそれこそ一貫して描かれている。
2.世界観の提示はキャラクター描写と同じほど重視されている
 ハミュッツがあまり出てこない章が意外と多い。あきらかに大きな展開同士の“繋ぎ”である回にしても、キャラクターファン向けのお遊び回は(純粋には)存在しない。最適な例は#9。
3.幕間回は章と章との間の息抜きでもあるが、終盤に近づくと入らない
 シリーズ構成上のリズムの考慮と思われる。緻密さの一例。
4.強さと弱さ、愛と憎しみ、関係と無関係、生と死は表裏一体
 おそらく、作品の包括テーマはこれ。純真さが一定レベルを超えるキャラがすべて死ぬのもここに関係する。

追記:ないものねだりでしかないけど、エピローグ描写としてせめてエンリケとオリビアのその後が描かれていれば完璧だったと思うんだ。