歌の翼に

歌の翼に(未来の文学)

歌の翼に(未来の文学)

20世紀半ばのアメリカ中西部をモデルとした舞台で少年時代を送る主人公の描写からはじまる。そこではアンダーゴッドと呼ばれる強固な宗教保守層とほとんど慢性的な食物の供給不足によって社会全体にうっすらとした灰色の雲がかかっている。ヒッピー文化における麻薬効果を思わせる、歌唱によって起こる「飛翔」現象。身体を抜け出した精神は、おとぎ話のフェアリーのように時を忘れて空中を舞うという…。
一言でいえば、抑圧と離脱の物語。いいかえれば、芸術論を長編小説の形で表わした、それ自体がオペラのような珠玉の本。前者と後者のつながりは、明確に文節内で著されることはなく、組み合わせの衝突音の空耳によってそのイメージが読者の脳内に反響される。愛の衣をかぶった様々な支配欲(ことに最もありふれているゆえに恐ろしいのが親友ユージーンの父が主人公に宛てた感情と行動)に翻弄され続けてきた主人公が、ようやく飛翔の足掛かりを実際に入手する瞬間、両者の間に一時の和解が訪れる。そしてそれは、間を置いて、すでに離脱を試みねばならないほどに抑圧の真綿に締められつづけてきた妻との、再会と分かり合いをももたらす。人と人との間に、愛があり続ける限りにおいて支配の構図もまた消えることはなく、それは抑圧と離脱との逃走劇がなくなることがないことも示している。だからこそ、若島正による巻末解説で述べられているようにあの結末でしかありえなかったであろうし、そこに可も否もとりたててあるわけでもない。
それにしてもディッシュの技巧のなんとさりげなくスマートな洗練ぶり。特に第二章での、決定的であるようでそうでないような心理事件の前後を序々に視点中心人物をすりかえていくことで、テーマの核心部の判明を先送りした箇所に舌を巻く。