この世界の片隅に(上・中・下)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

主人公はスケッチの得意なほがらかかつ大らかな若い主婦。彼女が嫁ぐ先には最初から妙に敵意を出してくる小姑がおり、そのチクチクした口激には円形脱毛症を発するほどだし、また嫁ぐ前にも頭を拳骨でぶってくる専横的な兄がいた。彼女は、そんな兄をひそかに自作漫画の中で鬼いちゃんと呼び、作中ではコミカルながらも殺してしまったりもする。これは、戦前、戦中のそういう今から見ると女性権利に未開な社会が舞台だ。しかし本作の主題はそういった今にも多少は残る世間の空気への断罪では、全然まったくこれっぽちもない。かといってさらに大きなフレームの内の不条理が示す戦争という混乱へと国民を淡々と追いやった自国や、市民居住区へと執拗な爆撃や集団殺人兵器投下を無造作に行った相手国への呪詛が入ってないかといえば、そんな事はない。すべては個人の感情において絡み合っているという、誰にとっても当たり前なリアルさ。それを表現するための数々の趣向と構成が淡々と描かれている重層性こそが、文学にも迫ろうかという作者の現在の境地。つらいことも、受け入れられないことも、わからないことも、ふしぎなこともある人生をそれでも自分の居場所と定め認めてもらえると実感できた時、すべては統合される。それが幸せって事なんだろう。ただ、それだけを描くのがこんなにも手間がかかるのだとこの長編漫画は教えてくれる。