歌の翼に

歌の翼に(未来の文学)

歌の翼に(未来の文学)

20世紀半ばのアメリカ中西部をモデルとした舞台で少年時代を送る主人公の描写からはじまる。そこではアンダーゴッドと呼ばれる強固な宗教保守層とほとんど慢性的な食物の供給不足によって社会全体にうっすらとした灰色の雲がかかっている。ヒッピー文化における麻薬効果を思わせる、歌唱によって起こる「飛翔」現象。身体を抜け出した精神は、おとぎ話のフェアリーのように時を忘れて空中を舞うという…。
一言でいえば、抑圧と離脱の物語。いいかえれば、芸術論を長編小説の形で表わした、それ自体がオペラのような珠玉の本。前者と後者のつながりは、明確に文節内で著されることはなく、組み合わせの衝突音の空耳によってそのイメージが読者の脳内に反響される。愛の衣をかぶった様々な支配欲(ことに最もありふれているゆえに恐ろしいのが親友ユージーンの父が主人公に宛てた感情と行動)に翻弄され続けてきた主人公が、ようやく飛翔の足掛かりを実際に入手する瞬間、両者の間に一時の和解が訪れる。そしてそれは、間を置いて、すでに離脱を試みねばならないほどに抑圧の真綿に締められつづけてきた妻との、再会と分かり合いをももたらす。人と人との間に、愛があり続ける限りにおいて支配の構図もまた消えることはなく、それは抑圧と離脱との逃走劇がなくなることがないことも示している。だからこそ、若島正による巻末解説で述べられているようにあの結末でしかありえなかったであろうし、そこに可も否もとりたててあるわけでもない。
それにしてもディッシュの技巧のなんとさりげなくスマートな洗練ぶり。特に第二章での、決定的であるようでそうでないような心理事件の前後を序々に視点中心人物をすりかえていくことで、テーマの核心部の判明を先送りした箇所に舌を巻く。

戦う司書#27(終)「世界の力」

本作のサブタイトルの定型は、三つの単語が二つの並立助詞(“と”)によって繋がれる。その意は、自分と他者と世界の三すくみの関係。しかしこの最終話だけそれが破られる。三者は一つに融合し、和解する。それは作劇においては「大団円」と呼ばれている。
期日の遅れた武装司書パーティー。ただし死者オンリー。ハミュッツが初めて仲間、そして共闘者として認めることにより仮想世界に召還された司書たちが、現世の因縁から解き放たれて乱舞し激励を飛ばしあう。ルルタは愛をこめてニーニウに戦う意思の象徴である短剣を突きたて、かつて失意とともに殺されたヴォルケンはその張本人であるハミュッツのおだやかで家庭的でさえある最期を看取る。ここに倒置の表意は敷衍して完成され、死を愛として受け止めていた女の動転は正位置に戻った。外の世界は神意からより遠ざかり“人の時代”が始まるのだろうし、武装司書たちも解散して野に下る。…
うん、〆られてるね。初見時は仮想臓腑内でキャラ全員の性格がズレたように思えたし、シナリオが駆け足気味に思えたけど、設定を思い返した後ならけっこう違和感なく呑み込める。ラストバトルの中心部を比喩としてとらえれば無礼講宴会にハミュッツが部下たちを招いて、敵にまで盃を回した。一人の哀れな女が普通の人間としての自分を見出したという一点だけでもドラマとして完成されてる。ハミュッツの最期の顔は、妙に所帯じみたように描かれてさえ見えて、しかもそれが幸せそうだった…
ただ一点、やはりEDは特別仕様でほしかったな。今までの司書の活躍シーンのダイジェストでいいので。それがもし観られていたら、一冊の本のように彼らの活躍は時間軸に関係なく尊いものであったし引いてみれば人の営み全体をひっくるめて「愛」と呼ぶことができるというテーマ確認にもなったと思う。とはいえ、今はただただ、異色作であり意欲作を作りきったスタッフに感謝したい。最終回においてもキレのあるアクションが多かった。ハミュッツがニーニウに走り寄るルルタを援護して投石するシーンの、プリミティヴかつダイナミックな動画は特に印象に残る。
(追記:アニメ感想率調査の折やツイッターの方でも総論などやりたいと思います。)