敗れし者たちがステップを踏むとき ~2022年アニメいろいろ~ 

 2022年のアニメは…と思う時、サイエンスSARUが送り出した姉妹作品「平家物語」と「犬王」の二つが真っ先に浮かんでくる。これらは結局何を謳っていたかというと、共感による交換性という"宝物"はつねに精神と呼ばれる"海"の底に眠っているという確信。それをできるだけ多くの人に伝えるためにアニメーションを創り続けるという宣言のように自分は受け取った。TVアニメシリーズ平家物語において加害側に位置する平家一門と、被害者の代表的存在であるびわが語り合う内にストーリーの発端に置かれた社会階層からくる感情の断崖は徐々に埋まっていく。そしてクライマックスである壇ノ浦でびわが徳子の手をつかみ引き上げようとするカットで、いよいよ立場の逆転は決定的になり、踏みしだかれた側が搾取した側に"それでも生きよ"と告げることになる。それは復讐であり、叱咤であり、認容であり、友愛の証しだった。劇場アニメ「犬王」では、舞踊による回転のイメージが鮮やかに脳内に焼き付けられる。柔軟な身体が歌曲のリズムに乗って回り回り回ることで浮世の硬く固められたシステムが廻って上下が逆転する瞬間が訪れる。ここでもまた逆転、それも支配性によらない精神の自由な運動としての逆転がテーマ表現の上で重要視されているのだ。「犬王」においてはその逆転はあえなく権力が振るう暴虐で潰された。しかし犬王と友魚、そして名もなき生者と死者が共有した昇華の瞬間は路上の辻に千年を超えて形のないものとして残ることが描写される。

 あまりテレビアニメを視なかった年(そしてこれからもそうなる目測)であるのだが、その中で目新しいトピックスといえば中国スタジオが制作したシリーズに見どころが多かったという点。犯罪サスペンスと異能力ものを掛け合わせつつ、現代中国の若者から見える風景を捉えた「時光代理人。劇場版から五分割することで魅力が再確認された「羅小黒戦記」とペアで放送枠が取られた「万聖街」は日本のメディア企業のローカライズの巧みさとともに、中国のクリエイターたちが未開拓の領域の上で伸び伸びとアニメを作っている楽しさが視ているこちらに伝染するようで、相当に新鮮な感触を得た。ファンシーとナンセンスとアクションという要素の組み合わせ方も滑らかでコメディアニメとして出来は上々。キャラメイクも愛らしくかつヴァリエーションが広い。

 今年の日本制作オリジナルアニメというと自分が視ていた範囲では(またもや)サイエンスSARUの「ユーレイデコ」。正直いって面白かったかといえばうーん…となってしまうのだが、ジェンダーレスなキャラクター扱いや社会格差へのテーマ選び、ユーザーインタフェース進化という観点など企画の立て方は十分に挑戦的だった。この傾向でさらに構成とドラマ演出が強化されることを期待。

 映像処理の豪華さに裏打ちされた作画の端整さといえばジャンプアニメ2作鬼滅の刃 遊郭編」チェンソーマン」。前者では虐げられた人々の暗い情念の暗喩となる夜の炎上や戦闘の技で飛び散る火花などが強く印象に残った。対照的に後者は掴みどころがないほど複雑化した現代社会そのものがテーマとなっているクールな作風であり、アニメ化に向いているとはいいがたい面も多々あったものの崩れないうえに動きに工夫が絶えない作画面の充実、毎回変わるエンディング、そしてブレない構成と演出という破格の注力と意志とで傑作に仕上がっている。今年放送されたテレビアニメでもっとも楽しみだった一作に挙げたい。

 もうひとつコンスタントに視ていた原作付きアニメは「ちいかわ」。朝のワイドショーのミニコーナーだが、放送後のYoutube配信でチェックしていた。原作のテイストをこまやかに拾っている点では地味に並ぶものがない凄みのあるアニメだった。傑作回はいくつかあるが、ハチワレがギターをつま弾きながら歌うだけの"ひとりごつ"をベストに推したい。

 一方、劇場アニメは国内も海外からもかなり数が多く上映された印象。個人的な理由からなかなか行けなくて見逃した作品が多く心残り(特に「アンネ・フランクと旅する日記」と「RE:cycle of the PENGUINDRUM〈後編〉」)だ。そんな中から厳選して足を運んだシチリアを征服したクマ王国物語」神々の山嶺の面の塗りの美しさを強調した画面づくりは一幅の絵画を眺めているような満足感。人生や世界に敷衍がひろがるテーマ性もさりげなく遠景としてコンセプトに含まれるのはヨーロッパ文化の厚みと今年も感じた。

 最後はNetflixオリジナル群。今年もやっぱりネトフリアニメが私の視聴主戦場。出来からいうとスプリガンの映像クオリティと諸要素バランスの見事さには本当に舌を巻いた。原作の古さをまったくハンデとしないものが視られるとは完全にこちらの予想を上回っていた。かといって少年漫画としてのドラマの温度感も残されており、文句の付けようがなかった。小林寛監督が新ガンダムで抜擢されたのも納得。オープンワールドRPGを原作としたサイバーパンク:エッジランナーズはTRIGGER色全開ながらも既存のスタジオイメージを押し拡げたことでエピックにふさわしい。ポーランド発ゲームの乾いたニヒリズムあふれる世界観が、人体パースと動画タイミングを自在に操る日本アニメの一系統と滑らかに融合しており、地面に近くかがんだような視点で作品を送り出すネトフリらしさでいえばジャンルを超えて今年屈指のコンテンツ。人死にの無惨さに眉をしかめつつ、血がふきだすテンポの良さに思わず痛快さを覚える。ゾンビ映画だ。これは世界そのものがゾンビ化した近未来を描く映画だったんだ。でもテーマは青春期の純粋な感情です。それで矛盾してない。なんでコンテの遠心力で構成要素がバラバラにならないんだ?…みたいに問いたくなる傑作。ぐでたま 母をたずねてどんくらい」OLM制作のCGアニメ。厭世的な生卵ぐでたまが張力ゆたかな白身やカラザを時に駆使しつつ、仲間のしゃきぴよ(モーションも声も悶えるほどかわいい)と旅をする。人間たちの実写部分との擦り合わせがストーリーとしても映像としても融合度が高く、その土台となる脚本と構成担当の加藤陽一の才気がこれでもかと走る。攻殻機動隊SAC_2045」は完結編となる第2クールが二年のブランクを経て配信。エビデンスのない妄想でも、現実と同じくらい共有された時には両者の価値は並んでしまうという昨今のSNSでの混乱を反映させたようなアクチュアルなストーリーにはかなり意表を突かれた。そして衒学的なプロットとは裏腹にB級アクション的描写がふんだんに盛り込まれていた辺り、やはり食えないスタッフだなと。海外製作アニメでは、ストップモーションアニメ「家をめぐる3つの物語」にゴージャスな印象を残された。不動産に執着する人々へのシニカルな視線を、愛らしかったり不気味の谷に留まっていたりする人形を用いて短編ストーリーに。その質感がフェティシズムの歓びを刺激して、同時に生々しさが時に過ぎてしまっている描写に身震いさせられたりとこれもネトフリならではのエッジなコンセプト。オムニバス構成も効果的に配置されていた。昨年リリースの「ウィッチャー 狼の悪夢」と同じくスタジオ・ミールが制作を担当して、古典的な器に現代的なテーマがよく映える秀作としてシリーズが完結したのが「DOTA:ドラゴンの血」。(例によって原作のゲームについてはまったく知識がない) 当初はドラゴンと肉体を共有する屈強な青年騎士が主役だったのだが、シーズンが進むごとに彼と恋仲である流浪のプリンセスがストーリーの中心となっていく。その構成自体にはやや疑義を持たないでもなかったし、プロットの流れが同じようなループを幾度か描いていて掴みづらいなどの不満もあるのだが、先人が重ねてきた文化への敬意やそれをストーリー上で自然に活かす素養に裏打ちされた脚本、そこへ厚味を加えた演出の安定度には、ファンタジー活劇よりも宮廷会話劇に重心を移す後半に行くほど魅了された。個人的観点に過ぎないかもしれないが、今年のアニメには社会の周縁に置かれた者にスポットを当てたコンセプトが目立つ。ところで、重ねて告げるがこの「DOTA:ドラゴンの血」はネトフリに本当に多く転がっている西洋中世的世界観の剣と魔法のファンタジーの一つだ。しかしこの作品の1シーンで、自分は今年もっとも魂に届く感動を与えられた。それは亡国の王女が世界線を転移してしまい、かつていた場所では既に亡くなっていた狂える父王に指針を乞う場面だ。妃を亡くして以来痴呆状態に陥る時間が増えていた王は、何が現実かすら見失って孤独に打ちひしがれる娘にこう告げる。誰も愛する子や親を悲運から守りきることはできない。だが"愛"とはなにか。それは危難や苦痛を取り除くことではなく、何があろうともあるがままの世界でともに生きる事。文面上はなんという事はないメッセージだ。しかしもう一つの現実からひとり遷移されて言葉に尽くせない孤立状態にある王女と、すっかり耄碌したと見なされてほぼ廃位の状態にある父王との間でそれが交わされる時、シーンには別の角度からの光線が当たってくる。世界から排除され自分の中でさえ何が正常なのか分からない者同士でも、愛について語り励ましあうことは出来るのだという表明。それを、何ら目新しい材料はなく手垢さえ付いたテンプレート上で細心に組み立ててみせたクリエイターたちの手業に私は魅せられた。作品は構成自体でいくらでも新しい驚きを生むのだと、受け手として再確認できた瞬間だったのだろう。