OVA「真(チェンジ!!)ゲッターロボ 世界最後の日」('98/全13話 監督:川越 淳)

ついにゲッターロボOVA三作の起点たるチェンゲまでさかのぼってきた。たしかBS放送で視た時は第1話で挫折し、それからも配信で3、4回は試みが途絶した自分にとってはまあまあの曰くつき作品である。なにしろ画面の中でキャラクターが何をやっているか、敵対関係の構図、物語展開の把握、すべてに着いていけなかった。かてて加えて、EMOTIONレーベル15周年記念作品という鳴り物入りとして当時から注目された分、さまざまな毀誉褒貶や噂話がインターネットの匿名掲示板や同好グループの知人などから流れてきており、なんとなくの先入観も多少あった。それらを真に受けているということはさすがに無いが、実際に本編を鑑賞していて制作現場の混乱を感じざるを得ない瞬間が多々あったのも事実。…やはり情報量がいろいろと多すぎる作品である。

さて本編プロローグにあたる第1話~3話だが、いたずらに時間軸を行きつ戻りつする出来事描写の分かりづらさ、同じようなことを何度も思わせぶりに語る早乙女博士が画面に映るたびに戸惑うなど、とにかく視聴が滑らかに行かない。だが、シリーズの見通しが完了した今はあのプロローグ部分は、この作品のみならず他ゲッター作品に対しても多大な影響を与えていたのではないかと見えてきた。先に結論を述べておくと、OVA展開にあたって真っ先に目論まれたのはそれまでに様々な媒体で発表されてきた「ゲッターロボ」を壮大なサーガ、つまり叙事詩として編み直すことによる魅力の核心の炙りだしであったということだ。物量作戦として乱舞する量産されたゲッタードラゴンたち、その中心部の高いところから年若い者たちを睥睨し、託宣めいた言葉を吐く仁王立ちの早乙女博士 --彼はゲッターロボサーガにおける科学面の司令塔であり、ゲッター線というオカルトの大祭司である--。はっきりいって何を言ってるのか、やりたいのかさっぱり分からない。(おそらく再度観直しても同じ感想を抱くと思う)ここにシナリオの構築不足をみてとることに私は躊躇はないが、だが映像インパクトとしてはおそらく成功している。正気を失ったとしか思えない早乙女博士(そもそも当初は死亡扱い)、どういう因果で対立したのかまるで筋が通ってないままキメ顔で銃を突きつけあう竜馬と隼人、あれよあれよという間に戦闘の余波で死亡する武蔵。ぜんぜん話の筋がつかめないが、不思議と石川賢が描いてきた漫画版の印象は踏襲されている。そしてなんとなく雰囲気が壮大だ(音楽もオーケストラ曲を多用)。…このオペラステージを見ているような或いは宗教画の異時同図法をほうふつさせるような、イメージだけを奔流させた導入部。どこまで企図された趣向かははかりかねるが、リリースから20年経った今でも語られることの多い作品となった十分な理由に値すると思う。印象を残すための映像としてかっこよければそれでいい。実際それで「ゲッターロボサーガ」が後年まで長く語られることへのレールは十分敷かれたのだ。

さて第4話以後の内容については、印象でいうとプロローグ部よりも薄いと言い切ってもいいかもしれない。脅威であるインベーダーの執拗な襲来を振り切りながら、ロードムービー的に移動しつつ早乙女博士の乱心の謎とインベーダー襲撃の目的とを解いていく。ストーリー面の評価としては、筋の綾目が掛け違っているように感じられたり(前述通り、早乙女博士の殺害にまつわる機序が明確に説明されない上にエピソードとしての必要性があやしい)、設定の必然性に首を傾げたり(クローン体である號のオリジナルがミチルであるのはまあ良いとして、なんでそこに父親である自分の細胞情報を混ぜ込むの?)、アポカリプス世界での組織系統の描写が省かれているためにメインキャラたちの行動原理が掴みにくかったりと、話数どおりに順番に視ていてもあまりスッキリとこない(またはこれはOVA全盛期に散見された"船頭多くして船山に上る"状態が製作が進む中で起こったのかもしれない。所詮は推測に過ぎないが)。それぞれのエピソードとしてもどこかで見たような筋のものが多く、特に出色といえるものはない。だがアニメとしての見どころがないわけでは決してない。3、4話に一度の割合で巡ってくる充実した作画回においてのロボットアクションは、他のゲッター作品と比べても特長がはっきりとある。オブジェクトとしての重量感のあるロボットが人物的に躍動するアニメート、建工重機のような操縦ギミックから漂ってくる独自の臨場味、かいつまんで評するとリアルな質感とガジェットの醍醐味とが絶妙に共存している。本作が海外のアニメファンに人気があるという秘訣もここにあるのではないかと想像される。また、どのシリーズでも子供を成した描写もない弁慶が、ヒロインである渓の育ての親として存在感を放っている大胆な脚色。90年代から00年代にかけてのエヴァンゲリオン・ブームにあやかって様々な作品で頻出した綾波レイマクガフィンとしての號と、因縁浅からぬ溪との陰陽図にも似た関係性の美しさ、損壊されても繰り返し襲ってくるインベーダーの生理的嫌悪感を誘う執拗なまでの不定形描写など。残念ながら不完全燃焼に終わったテーマ処理が多いながらも、作画・演出の独自性や強い印象を残したキャラクター描写は片手の指では足りないほど挙げられる。

そして終盤のクライマックス、舞台を宇宙空間に移してふたたび序盤に引けを取らないめくるめくロボットバトルがこれでもかとインパクトを叩き込んでくる。中盤の冴えなさもこれで完全に帳消しである(当時ディスクを一枚ずつ購入していた人にとってはそう単純ではないとは思う)。終わりよければ総てよし。本作のこの最終話の圧倒される充実ぶりは、ゲッターロボ作品では恐らくずば抜けているのではないだろうか。説明は足りてないままだし理屈はよく分からないけど、とにかく大団円! ロボットアニメはこういうのでいいんだよ。(あらゆる異論は認める)

とはいえ、せっかく批評するにあたっていまいちど概論はしておかなければいけないと思う。チェンゲとはゲッターロボ作品史において何だったのか。それはサーガ(神話)の開門部にして、見取り図だったのではないだろうか。第1話から第3話までと、最終話での激しい戦闘はそれぞれ新・旧のラグナロク北欧神話でいう神々の黄昏にあたる。竜馬たちオリジナルゲッターチームが果たせなかった"神殺し(≒父親超え)"を十数年後に號を筆頭とした新たなメンバーが達成するという筋をシリーズ構成の柱としてあててみると、それなりにコンセプトが理解できるのだ。なお、ここでいう「神/父親」とはすべてにおいて偉大な早乙女博士であり、スティンガー&コーエンに象徴される既存の価値基準(人類は生き残りのためにインベーダーと共生『せねばならない』という固定観念)が内容となる。偉大なる父を超え、過去の世界を刷新する神殺しを過去の恩讐を超えてメインキャラ全員で成し遂げて、かつてのゲッターチームたちは別の次元へと旅立っていく。號や渓に剴たちが切り拓いていく新時代のビジョンがまったく示されないまま閉幕したことも、かえって清々しさを覚えると肯定も可能なのである。そして当初(からあったと想像されるところ)のコンセプトを制作の混迷の末に完遂した本作はその歪な出来ゆえにかえって溢れ出るパワーを視る者に伝えてくる快作となった。この外側の状況もまた、成り立ちが神話的といえないだろうか。

 

追記ゲッターロボOVA三作の趣向をそれぞれ1フレーズで表すなら『ヒロイック』(チェンゲ)、『アミューズメント』(ネオゲ)、『ピカレスク』(新ゲ)。まったく異なるコンセプトで相互に際立たされている事がわかる。またこれらは"ゲッターロボサーガ"に見出される要素そのものであり、ごった煮されたカオスな様相そのものがエンタテインメントを成すゲッターロボの魅力が直観的に示された三位合体であると今は理解できた。)

(追記のさらに追記:なお、別の表現で分類するなら三作は『バロック』『ポップ』『ゴシック』)

補足:記事中で北欧神話がコンセプトに入っているのではないかと特にソースもなく推測したが、チェンゲにおける早乙女博士は片目が髪で隠れているデザインがデフォルトとなっており、これは隻眼のオーディン神をほうふつとさせる。興が乗ったので、そこから他のキャラを北欧神話の諸柱に充ててみた。ミチル→ヨルズ<オーディンの娘にして妻でありトールの母>、號→トール<北欧神話最強の戦神。雷をつかさどる>、渓→フレイヤ〈やはりヒロインたるもの、北欧神話でもっとも有名な女神を。戦の女神でもあるみたいだし。オーディン神の対概念であるという説も〉、竜馬→ロキ<チェンゲでの彼はトリックスターだと思う。従来のキャラとは役目が反転してる気もするけど。正体不明として(瞬間含む)登場する展開が複数あるのが変身を得意とするロキっぽい>、隼人→ヘイムダル<世界の見張り番である神。ラグナロクの訪れを告げる役目を持つ。ロキとは因縁がある>)