百日紅〜Miss HOKUSAI〜('15/監督:原 恵一)

「カラフル」から劇場で監督の作品を観始めた自分だが、ここまでの三本の作品で共通する印象があって、それを何かに例えて表現するとすれば“日光写真”がもっとも近い。当てる光は淡く、像が定着するまで時間はかかるが、なぜか記憶の中にずっと残る手触りを持つ技法。本作のメリハリに欠けるように思えるエピソード構成や、わかりやすい盛り上がりがないに等しいドラマ演出も初見からしばらく時間が経つと全体像の見え方が変わってくる。胸の底にじわじわとお栄やお猶、北斎たちの心の動きが再現されて映ることとなる。
ストーリーは散漫といっても間違いではないように思う。お栄の画才はそこそこだが、経験の浅さゆえに父には当然及ばず、しかし食っていけないほどではない。私生活にしても、惚れている男とは目線が合わないまでも、慕ってくる相手がいないこともない。だが些細な噛み合わなさが彼女の心に蚊帳のような薄いもやを掛ける。その最たるものが幼くして不治の病を持つ妹の存在だが、それとて母も父も、お栄やお猶自身も理不尽なものとしては受け取っていない。日々は河の水のように流れる。
飛びぬけた才を持つ者ですらままならないのが世間というものならば、では生きる甲斐はどこにあるのだろう。その答えとなっているのが江戸の町でお栄たちが目撃する怪異の数々だ。個々の思惑や紙の上での再現の可否といった人間の事情を超えて、それらは存在を立ち上げ、飛び回る。その生き生きとした姿はおぞましいと共に可笑しくそして美しい。さらには本来は受容器を持たない者にまでイメージを伝えることが可能なのだ。お栄がよりどころにしていたのは其処にあるのではないだろうか。
不自由を描くことで一筋の大きな自由を表現する。これはそんな映画のように思う。