星を追う子ども('11/監督:新海 誠)

日本アニメーション」のキャラクターが「スタジオジブリ」世界で動いているような据わりの悪さがまず目につく作品で、しょうじき、これは映画館で観てたら終始落ち着かない気分だろうなと思ったが、今回のTV放送ではそういう心構えに似た屈託よりも、背景美術や設定ギミックの思い切りの良さや心情描写の文芸映画寄りな繊細さが自分の中に沁み入ってきた。これは『大人になりきれずに、見えないはずの星ばかりを求める足下の危うい子どもや内面コドモ』のための映画だ。
この作品でよく指摘される不満点で、ヒロインのアスナ異世界への冒険に身を投じる気持ちが分からなかったり彼女の主体性の無さが気になる…というものがある。しかしそれは新海監督は意図的に演出しているはずだ。だって物語のクライマックス直前にアスナ自身が言ってるもの。「なんだ、私ただ寂しいだけだったんだ」と。なんとなくで、人は行動する。なんとなくから始まった自己暗示に近いものに時に人生を賭けてしまったりする。たとえば旧作『秒速5センチメートル』で既にそういったあいまいでいてだからこそ強い気持ちの衝動を新海監督は描いているわけで、ひとりよがりな狂気に近い孤独という文芸映画のテーマを、日本人が娯楽として真っ先に印象するジブリアニメからの数え切れない引用というルックスに載せてしまった表面的な居心地の悪さすらも、計算のうちに段々思えてくるほど、なぜか自分はこの作品に惹かれる。そこに、監督の作家としての矜持みたいなものを感じとるからかもしれない。
なお、黄泉の国と神話学上は同一な地下世界『アガルタ』は、科学考証へのフォローが雑すぎたりと細かな瑕疵はあるものの、イメージボードからのスクリーンへの投影としては非常に伸び伸びと飛躍が見られてワクワクした。平穏ながらゆっくりを滅びるのを待つだけのコミューンとして、崩れた塔にそれでも灯りがともっているのを舟上から見送るシーンなど、含みが言外に豊かなものがいくつもあった。